仏教教育センター
きょうのことば
きょうのことば 2025年1月
竿頭、歩を進む
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美しい死であったと感じました
この不思議なことばは、森 亘(わたる)(1928-2012)という著名な病理学者が、献体された恩師の遺体の解剖に立ち会った時のものです。解剖が終わりかけた頃、隣にいた医師が森に「解剖を拝見しての感想はいかがですか」と問いかけました。それに対して、思わず口をついて出たのがこのことばだといいます。状況から明らかですが、この「美しさ」とは、目の前で解剖されている恩師の遺体の、しかもその内臓の姿を指しています。恩師はすい臓がんで亡くなりました。その死者の内臓が美しいとはどういうことでしょうか。千を超える解剖症例を経験してきた森は、この時自分が「美しい」ということばを使ったことに驚き、何をもってその遺体を「美しい」と感じたのかを自問自答しています。
彼はその理由としてまず「必要にして十分な適度な医療がもたらす合理的な美しさ」を挙げ、しかしそれが単なる「合理性一点張り」ではなく、「暖かい「こころ」に裏打ちされた合理性」であることを指摘しています。病理解剖学的に見た「美しい遺体」とはそのような「節度ある医療」の結果生まれたものだが、その医療は同時に「品位ある医療」、つまり暖かい「こころ」に裏打ちされた医療である。そのような医療は「Aの場合にはBせよ」といった一般的な「ガイドライン(指針)」から導き出すことはできず、医師と患者が個々の事例に真剣に向かい合って生まれるものである、と。
哲学的に言えば、これは「バランス」ということだろうと思います。私たちはさまざまなものを「美しい」と感じます。美しい人、美しい音楽、美しい風景、美しい所作、美しい話、そして死者の美しい内臓。これらに共通するものがあるとすれば、そこに何らかの調和やバランスが実現されているということではないでしょうか。しかし、その調和は教科書的な「ガイドライン」に沿って生まれるのではなく、そのつど、それぞれの場面で、人が「こころ」を込めることによって実現するものです。それゆえ、「美しい」ということは場面や状況に制限されることなく、どんなところでも起こりえます。
さて、森は恩師の遺体の美しさに「自然」という言葉を使い、それは「自然の死」に近いものであったと語ります。このことは奇妙です。なぜなら、人が「こころ」を込めるということは一見作為であり、「自然」とは真逆であるように思えるからです。さらに、たとえば「自然の美しさ」は人が作ったものでさえありません。それを「美しい」と感じる時、そこにはいったい何ものの、どのような「こころ」が裏打ちされているのでしょうか。もしかしたら、人が「こころ」を込めて何かをするということは、作為ではなく、逆に人ならぬ何かの「こころ」を受け止めるということなのかもしれません。「美しい」という不思議は、こうして人間の領域を超え、私たちをはるか遠いところへ連れていくのです。
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