たとい正義(しょうぎ)たりとも、しげからんことをば、停止(ちょうじ)すべき由候(よしそうろ)う。

『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』東本願寺出版部 879頁)

 戦国乱世の時代を生きた本願寺第8代蓮如(1415~1499)は、その生涯をかけて親鸞の教えを仰ぎ、精力的な教化活動によって本願寺教団の再興を成し遂げました。蓮如やその門弟たちの言行がまとめられた『蓮如上人御一代記聞書』には、浄土真宗の教えや心得が平易な言葉でいきいきと語られています。

  ここで「正義」とは「しょうぎ」と読み、正しい教えを意味します。つまり、「たとえ正しい教えであっても、それに固執して繁雑に繰り返すようなことは慎むべきである」と述べられているのです。

 自分が感動し、また理解できた教え、つまり「正義(しょうぎ)」は、ともすれば握りしめることで、いつの間にか自分だけの「正義(せいぎ)」となり、その正しさを振りかざしてしまうことがあります。この「正義(せいぎ)」という言葉には、誰もが従わなくてはならないと思わせる不思議な魅力があります。この魅力のために、自分はいつも居心地のよい「正義(せいぎ)」の側に立ち、その正しさを人に押しつけようとしてしまいます。くどくどと説教する親や教師にうんざりすることがありますが、「正義(せいぎ)」に立っているという驕(おご)りによって、伝えようとする教えが無意識のうちにその人を支える権威と化しているからかもしれません。


 ここでは、教えを説く時は、簡潔にしなさいという単なる方法論が語られているのではありません。どこまでも「正義(せいぎ)」に立とうとしてしまう私たちのありようを問う言葉として、一度立ち止まり、内省することの大切さが語られているのです。

 詩人吉野弘の「漢字あそび」と題する随筆に、


 「正」は「一」と「止」から出来ています。信念の独走を「一度、思い止まる」のが
 「正」ということでしょうか。         (『吉野弘詩集』ハルキ文庫181頁)


とあります。本来、正しい教えとは、握りしめた自分だけの「正義(せいぎ)」の暴走を立ち止まらせ、「自分は正しい」「自分はわかっている」という無自覚にして深い迷いを呼び覚ますもののはずです。「正義(しょうぎ)」を握りしめるのではなく、自分自身に呼びかけられた言葉として受け止めることができたとき、「正義(せいぎ)」の魅力から解放され、あらゆる人と共に教えを聞いていこうとする地平が開かれるのでしょう。

 


 

 


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