この世は、決して助けるもののない人のためには
出来ていないのです。

パール・バック(『母よ嘆くなかれ』法政大学出版局 70頁)

 パール・バック(1892-1973)は、米国ウェスト・バージニア州出身の女性作家です。宣教師の両親と共に幼くして中国に渡り、そこで育ちました。高等教育を受けるため一時アメリカに帰国したのち、再び中国に渡り、中国民衆の生活を題材にした小説を書き始めました。代表作である『大地』(1931)でピューリッツァー賞を受賞し、1938年に米国の女性作家としては初めてノーベル文学賞を受賞しています。晩年は、児童福祉施設や財団設立など、愛と平和のために尽力し、1973年に没しました。


 『母よ嘆くなかれ』(原題The Child Who Never Grew, 1950)は、重い知的障がいのある子どもの尊厳と、親の人生、そして他者との共生を見つめたパールの手記です。パールは最初の夫とのあいだに娘キャロルを授かりましたが、可愛い娘にはフェニールケトン尿症の後遺症による重い知的障がいがありました。パールは娘を9年間中国で育てた後、米国の入所施設に預けることになります。『母よ嘆くなかれ』には、その9年間にわたる母パールと娘キャロルの、生活の苦悩と愛情に満ちた関係が記されています。


 標題に掲げたパールの言葉の裏側には、この世の中におけるキャロルの立場が、本当に独りぼっちのものなのではないか、という不安があります。具体的には、パール亡き後のキャロルの将来に対する不安です。「肉体的には年をとるまで生きのびて、しかもいつまでも人の助けを必要とする子どもを、誰が安全に守ってくれるのでしょうか」とパールは述べています。これは現在でも知的障がいのある子ども、特に重い知的障がいのある子どもを持つ家族が避けて通ることができない課題です。パールはこうした不安に向き合いながら、キャロルを安心して預けることのできる入所施設さがしに奔走しました。もう一つパールを苦しめたのは、周囲の無理解でした。パールの場合、キャロルが生まれてしばらくすると、中国での数少ないアメリカ人の隣人たちからパーティに招待されなくなりました。キャロルを「かわいそうな子ども」と軽蔑されたことが理由です。キャロルには友達が必要だと考えていたパールにとって、このことはちょっとした事件でした。やがて、キャロルの幸福のためにはキャロル自身が幸福を感じる世界を見つけ出し、キャロルをその世界に住まわせなければならないとパールは決心するに至りました。


 最終的にパールはキャロルにとっての理想的な入所施設として、ニュージャージー州ヴィランドのトレイニング・スクールを選びました。この施設は子どもを知能で判断するのではなく、社交性、誇り、親切な気質、好かれたいという気持ちを大切にしていることが特徴の一つです。また立派な建物や設備よりも、理事長などトップの考え方や、そこで働く職員の子どもに対する愛情や人柄をパールは重視しました。現在では重い知的障がいのある子どもも、入所施設ではなく、地域の中で障がいのない人と共生する社会づくりが目指されています。この政策に期待するところは大きいのですが、それ以前に、周囲の人たちが家族の心の不安や悩みに寄り添うこと、障がいに対する社会の理解こそ、家族にとって必要なのではないでしょうか。

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