だが恥辱を講じ、恐怖を評じるみなさんよ /そのハンカチはまだ要らない/ これで泣いてはいけないよ

ボブ・ディラン『ハティ・キャロルの寂しい死』(『The Lyrics 1961-1973』岩波書店 164頁)

  リンカン大統領が奴隷解放宣言を出してから100年目に当たる1963年、アメリカの公民権運動はクライマックスを迎えました。この年の8月28日、首都ワシントンのリンカン記念堂に集まった20万人を超える人々を前に、マーティン・ルーサー・キング牧師は後世に残る演説を行い、「私には夢がある」(I have a dream)と語りかけました。

   これと同じ日に、メリーランド州で、ある殺人事件の判決が下されました。被告は24歳の白人男性ウィリアム・デヴェルー・ザンジンガー。ハティ・キャロルという黒人のウェイトレスを殺した罪に問われていた彼に言い渡された刑は、禁固6か月でした。ワシントン大行進に参加していた歌手ボブ・ディランは、ニューヨークへの帰途にこの裁判の記事を読み、不当に軽い刑に怒りを覚えます。そして書き上げた歌が「ハティ・キャロルの寂しい死」(The Lonesome Death of Hattie Carroll)です。

 歌の1番では、ウィリアム・ザンジンガーがボルティモアのホテルで、杖を振り回してハティ・キャロルを殺したことが語られます。そしてその後に標題のことばが添えられ、本当の悲しみが訪れるのはまだ先であることが示されます。ここで標題のことばの原文を記しておきます。 
 

   But you who philosophize disgrace and criticize all fears

   Take the rag away from your face

   Now ain’t the time for your tears
 

 2番では、たばこ農園主であるザンジンガーの裕福で恵まれた環境、権力者とコネがあること、事件について反省をしていない様子が語られ、やはり最後に標題のことばが添えられます。3番では、当時51歳だったハティ・キャロルの、ザンジンガーとは対照的な慎ましやかな暮らしぶりと、その人生が杖の一撃で突然終わったことが語られ、1番2番と同じように、最後に標題のことばが繰り返されます。そして4番では、理由もなくいきなり人を殺した男に、誰に対しても平等で公正であると謳う裁判所が6か月の刑を下したことが語られた後、「そのハンカチに深く顔を埋めなさい/今こそ涙を流すとき」(Bury the rag deep in your face / For now’s the time for your tears)と歌われます。ディランがこの歌に込めた静かな怒りと大きな悲しみは、最後の2行で説得力を持って聞き手の心に迫ってくるように思います。
 

 ザンジンガーは出所後不動産業に転じ、2009年1月3日に69歳で亡くなりました。彼は生前ディランについて、「告訴して刑務所に入れるべきだった」と語っていたそうです。バラク・オバマが第44代アメリカ合衆国大統領に就任したのは、彼の死から2週間ほど後のことでした。時代は着実に進んでいるようにも感じますが、一方で白人ナショナリズムも広がりを見せており、アメリカの人種差別は今も大きな問題として残り続けています。
 

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