初代学長・清沢満之 略歴
西暦(和暦) | 年齢 | 事 項 |
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1863 (文久 3) |
1 | 6月26日、名古屋黒門町に生まれる。 幼名満之助。父徳永永則、母タキ。 |
1872 (明治 5) |
10 | 愛知県第五義校に入学。 |
1873 (明治 6) |
11 | 第三小学遷喬学校に転入学。 |
1874 (明治 7) |
12 | 愛知県外国語学校に入学。 |
1878 (明治 11) |
16 | 覚音寺の衆徒として東本願寺で得度。法名賢了。 東本願寺育英教校に入学。 |
1882 (明治 15) |
20 | 東京大学予備門第二級に編入学。 |
1883 (明治 16) |
21 | 予備門を卒業、東京大学文学部哲学科に入学。 学内騒動に加わり退学させられる。 |
1884 (明治 17) |
22 | 東京大学文学部哲学科に再入学。 井上円了・井上哲次郎等と「哲学会」を創設。 |
1887 (明治 20) |
25 | 哲学科を卒業、大学院に入り宗教哲学を専攻。 |
1888 (明治 21) |
26 | 京都府立尋常中学校長となる。 三河大浜の西方寺に入り、清沢やす子と婚姻。 |
1890 (明治 23) |
28 | 京都府立尋常中学校長を辞す。 |
1892 (明治 25) |
30 | 『宗教哲学骸骨』を出版。 |
1894 (明治 27) |
32 | 結核のため教職を辞し、須磨・垂水にて転地療養。 |
1896 (明治 29) |
34 | 洛東白河村に籠居、宗門改革運動を起こし『教界時言』を創刊。 |
1897 (明治 30) |
35 | 宗門改革運動主唱者として除名処分を受ける。 翌年、除名処分を解かれる。 |
1899 (明治 32) |
37 | 『臘扇記』完結。 |
1901 (明治 34) |
39 | 浩々洞より『精神界』を刊行。 真宗大学が東京巣鴨に移転開校、初代学監に就任。 |
1902 (明治 35) |
40 | 長男信一、妻やす子相次いで病没。 真宗大学学監を辞して大浜西方寺に帰る。 |
1903 (明治 36) |
41 | 6月6日没す。法名は信力院釈現誠。 |