「ひとは真に誠実であると同時に誠実そうに見えることはできない」
ライオネル・トリリング(『〈誠実〉と〈ほんもの〉—近代自我の確立と崩壊』法政大学出版局99頁)

ひとは真に誠実であると同時に誠実そうに見えることはできない

 愛想笑いを浮かべたり、おべっかを使ったりした経験は、おそらく誰もがもっていると思います。また多くの人は、そんな自分のふるまいを少し情けなく感じたりしているかもしれません。他人の愛想笑いを前にして、不快に思ったり軽蔑のまなざしを向けたりしたこともあるでしょう。では、なぜ私たちは、こうした状況に陥ってしまうのでしょうか。

 「誠実sincerity」は、その疑問を解き明かすためのひとつのキイワードです。誠実とは、裏表がない自我の状態であり、自らの「感情と言動の一致」を意味します。私たちの社会では、誠実であることに高い道徳的価値を認めていますが、逆にいえば、裏表のある人たちばかりの世の中になったため、「誠実」に重きが置かれるようになったという見方もできます。米国の文芸批評家ライオネル・トリリング(1905‐1975)によると、誠実の価値が高まったのは、過去400年ほどの間に生じた西欧社会での歴史的変化に起因します。社会が複雑化し、流動化するにともない、人びとは生まれによって人生があらかじめ決められた身分制社会から、徐々に解放されていきます。多くの人は、見知らぬ者どうしが頻繁に接触する都市で生活を営むようにもなりました。そこでは自分を装い偽ることは、他人からの信用を素早く勝ち取ったり、名声を得たりするための効果的な手段です。つまり自分を見せかけ、印象を操作するという点では、愛想笑いやおべっか使いは、端正なファッションに身を包み、上品な身のこなしを心掛けるのと、さほど変わるわけではありません。しかし一方で、社会が見せかけばかりの茶番めいた世界となり、虚偽の言動に満ちていけば、表向きの顔とは異なる私的な内面や本音が個々人には備わっているという考えも現れることになります。ここにおいて、自らの内面を率直に語ることが、誠実さの証として尊ばれる基礎が形成されるのです。

 とはいえ、誠実さには危うさもあります。自らの誠実さに自惚(うぬぼ)れる人は、自分の感じるとおり、思うままに何事もずばずばと言ってのけるからです。それは、ときに周囲を混乱させ、世間の顰蹙(ひんしゅく)を買います。実際、誠実で実直すぎる人間は、世慣れていない無作法な者として軽んじられることもあるでしょう。しかし、誠実の価値自体は下落しているわけではないので、自己の内部の誠実さを外部に認めさせたければ、世間の基準にあわせて、「誠実な人」を演じる必要も出てきます。この場合、ひとが自らを装っているといっても、「偽りの自己」を演じているわけではありません。むしろ「真の自己」を演じ、自分自身であるふりをしているのです。もちろん、演じ装っている行為自体は、虚偽にほかならず、逆説的(パラドキシカル)に自分自身にとっては不誠実な態度となります。つまり誠実な人間は、皮肉にも、自らの誠実さゆえに、自らを裏切り不誠実に陥るのです。この「誠実のパラドクス」の中で、自らの生き方が贋(にせ)ものに思え、恥や疚(やま)しさを感じざるをえないような状況が現れることになります。「誠実であれ」という道徳的要請が、見せかけばかりの虚偽の世界を裏で支え、強化しているともいえます。かくして人の世は、なかなか一筋縄ではいきません。

 標題のことばは、ノーベル文学賞を受けたフランスの作家アンドレ・ジッド(1869‐1951)がかつて語ったことばとして、トリリングが自らの著作に引いたものですが、誠実であることの困難さを見事に抉(えぐ)り出した至言といえるでしょう。

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