「意味の世界だけが世界の現実かというと、必ずしもそうじゃない」
下村恵美子(『九八歳の妊娠 宅老所よりあい物語』雲母書房237頁)

意味の世界だけが世界の現実かというと、必ずしもそうじゃない

 もう10年ほど前、早朝4時にふと目が覚めてつけたラジオから高齢者介護の話が聞こえてきました。眠い頭で聞いていると、ある女性が(それがこの本の著者である下村恵美子だったのですが)次のようなことを言っています—「もう百歳近いおばあちゃんから、すごく深刻な顔で「ちょっと話がある」って言われたんです。「どうしたんね」って聞いたら、そのおばあちゃん、「どうやら、おなかに赤ちゃんがおるごとある」って」。
 

 ここまで聞いて少し目が覚めました。百歳近いおばあさんが「自分は妊娠したみたいだ」って? やれやれ、本当に介護って大変だなぁ…そう思った瞬間です。下村は続けて次のように言ったのです。「私、それ聞いてほんとにびっくりしてねぇ。それで、すぐおばあちゃんに尋ねたんですよ、「相手、誰ね」って」。私は頭をガツンと殴られたような気がしました。そして、この驚きは何だったのか、後からいろいろ考えました。
 

まず、この下村の言葉は「人の話を本当に聞く」とはどういうことなのか、その実例を私に突きつけました。「相手、誰ね」という切り返しは、まさにおばあさんの話を本当に聞いているからこそ出る言葉です。私は、自分が普段どれほど浅いところで、人の話を適当に聞いているかを思い知らされるような気がしました。
 

ですが、下村のこの「本当に聞く」態度は、「認知症になって妄想を言う相手であっても馬鹿にしたりせず、尊厳ある人間として扱う」というような抽象的なものではありません。ここは難しいですが大切なところです。「相手、誰ね」と下村が尋ねた時、二人の関係はもはや介護者と彼女に世話される認知症の老人などではありません。この瞬間、二人は大切な打ち明け話をする友人同士です。「尊厳」という抽象的な言葉よりも前に、二人は同じ世界をともにする者同士であり、下村自身もそこで介護者としての仕事を超えておばあさんと一緒に生きることを楽しみ、悩みを分かち合っています。そうでなければ「相手、誰ね」などという言葉は絶対に生まれないでしょう。


二人がいる「世界」は、私たちが普通生きている「意味の世界」ではありません。意味の世界では、九八歳の妊娠はわけのわからぬ妄想でしかないでしょう。でも二人は、そんな浅い息苦しい意味の世界を超えて、もっと自由自在に楽しんでいるように私には思えました。標題のことばは、この本で下村と対談した詩人の谷川俊太郎のものですが、彼が言う通り、「意味の世界だけが世界の現実かというと、必ずしもそうじゃない」のです。介護の現場はもちろんきれいごとではありません。ですが、そこにはこんな広々とした深い「世界の現実」がある。私がいつか「赤ちゃんがおるごとある」と打ち明けた時、そこに「相手、誰ね」と驚いてくれる人はいるでしょうか。

関連記事