心一国に限れば、則ち耳目の外皆な疑わる。

僧祐『弘明集』後序(『大正新脩大蔵経』第52巻 95頁)

 大学での学びは、高校までの学びとは異なります。高校までの学びは、すでに広く明らかにされている知識や理論を、定められた教科書を用いることなどによって、習得していくことが基本にあります。しかし大学は、すでに明らかになったと思われる知識や理論について、さまざまな角度から問い直し、異なった視点から新たな知識や理論を生み出していくような学びの場でもあります。そのため、これさえ読めば完璧といった教科書や参考書がない授業も中にはあるでしょう。そこに、専門的であり、一つの物事を深く掘り下げていく大学の授業のむずかしさがあると思います。

  こうした大学での学びの中では、「なぜこのようなことを勉強しなければならないのか」「これを学んで何の役に立つのか」といった疑問が聞こえてきそうです。しかし、こうした疑問が起こる背景には何があるのか、ここで少し立ち止まって考えてみましょう。大学の授業で聞くこと・学ぶこと・問われることが、これまでの自分の人生経験の中で全く考えたことのない問題であれば、最初は困惑してしまうかもしれません。

 標題の言葉は、中国中世に成立した『弘明集(ぐみょうしゅう)』という書物の中で、これを編纂した僧祐(そうゆう)(445-518)という仏教者が述べたものです。自分の心が狭い世界に限定されていると、これまで耳で聞いたこともなく、目で見たこともない世界にふれたとき、そこに疑惑のまなざしを向けてしまうだろうという意味です。


 インドで成立した仏教が中国へ伝わると、中国の人たちは大きな衝撃を受けます。中国は古来よりすぐれた学的伝統を有し、大量の知が集積され、すでに固有の文化・宗教が社会に深く根付いていました。中国の人たちは自国を世界に冠たる文明国であると自負していました。ところが、仏教の伝来により、中華世界の外側のインドにもそれに匹敵するような文化・思想の体系があったことを知ります。これを書いた僧祐の時代には、その外来の仏教に強く惹かれていく人もいれば、一方で仏教に対して批判や疑問を投げかける人たちもいました。


 崇仏(すうぶつ)か排仏かという論争の過程で、僧祐は仏法を護っていくために、批判や疑問を投げかける人に対して、標題の言葉を述べたのです。これまで接したことのない異文化とはじめて出会った人が、その異文化に疑いをもち、自らがこれまで知っていた自国の文化・思想のみを正当化しようとすることに対する反論です。この文章の末尾で僧祐は「人生は一瞬のうちに経過して後もどりはせず、たちまちのうちに後世を迎える」「後悔してもとり返しはつかぬ」(現代語訳は吉川忠夫訳『大乗仏典〈中国・日本篇〉』第4巻、中央公論社、137-138頁)とも述べています。


 大学の授業でも、一見難しく、自分とは関係ないと感じることも、時にはあるでしょう。しかし、そう感じたときこそ、自分がこれまで考えたこともない新しい世界が始まるチャンスかもしれません。短く限られた大学での学びの時間を大切にしてください。

 

 

 


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