「浄慧(じょうえ)と随行(ずいぎょう)とを対法(たいほう)と名づく。」
『阿毘達磨倶舎論』(『大正新脩大蔵経』第29巻 1頁)

浄慧と随行とを対法と名づく。

 これは、五世紀のインドに登場した仏教思想家である世親(せしん)(ヴァスバンドゥ/天親(てんじん))の主著『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』(略して『倶舎論』)の言葉です。

 「浄慧」は、汚れのない清らかな仏陀の智慧をあらわします。「随行」は、無漏(むろ)の慧すなわち汚れのない智慧の周辺にある法(dharma)だと『倶舎論』は説明します。仏陀の智慧にしたがって立ち現れてくるものであり、私たちのこころを形成しているものを指します。具体的には、教学の専門用語で、心(しん)と心所(しんじょ)と無漏律儀(むろりつぎ)と不相応法(ふそうおうほう)と説明されています。「対法」は、古代インドで用いられたサンスクリット語のアビダルマ(abhi-dharma)の漢訳語です。法(dharma)に対向する(abhi)ということを意味します。

 標題の言葉に対応するサンスクリット原典の文章を訳すと、「無垢の慧とおよび〔それに〕伴う〔法〕とがアビダルマである」となります(櫻部健『倶舎論の研究』137頁)。汚れのない仏陀の智慧によって、仏陀がお説きになった法に対向する、すなわち法を分析することがアビダルマであると言っているのです。古代インドの文献に登場する「法」という語は、様々な文脈で用いられるたいへん難解な言葉です。ここでは、苦悩の原因が何であるのかということをも含めて苦悩についての仏陀の教説を「法」という言葉で表現していると捉えておきましょう。さらには、仏陀の教説に対する分析を通して生み出された経典の解釈書もまたアビダルマ(論)と呼んでいます。

 諸法を、分析し、よく観察すること以外に、苦悩の原因である煩悩を鎮めるすぐれた方法はないと『倶舎論』は説きます。仏陀は苦悩する人間の姿を十全に語り、またその苦悩を越えて生きることができることをお説きになった。仏陀が語ってくださった諸法を分析し観察することによってこそ、仏陀の教説を正しく受けとめることができる。教説を正しく受けとめることができれば、我々もまた仏陀と同じひとつのこころを持って、苦悩を越えて生きることができる。古代インドのアビダルマの教学者たちはこのように考えていたと言えます。

 このような古代インドの教学者たちは、苦悩の原因とそれを越える道について体系的に記述することによって、仏陀の教説を受けとめて、それを共有しようとしたのです。アビダルマという営みによって、教説が整理され、分類され、分析されて、体系的に記述されたことによって、教説を正しく理解するための知の基盤が形成されました。こうして生み出されたアビダルマ論書は我々にとって極めて複雑で難解なものに見えますが、それらは仏陀の教説を正しく理解しようと勉めた人たちの思索の結果なのです。

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