ヨブのことばのあとに続くものは
疑問符(?)ではなく、
感嘆符(!)であるべきだったのです。

H.S.クシュナー(『なぜ私だけが苦しむのか』岩波書店 128頁)

 このことばを書いたのはH.S.クシュナーというラビ(ユダヤ教の教師・指導者)です。彼の息子は生後8か月で体重の増加が止まり、1歳になった頃から髪が抜け始めました。そして3歳の時、息子は早老病の宣告を受けます。早老病とは若くして急激に老化が進む不治の病です。クシュナーは何の罪もない幼い息子が残酷な病にかかって苦しみ、10代初めで死んでいかねばならない理不尽を神に問うてこの本(原題はWhen bad things happen to good people:善人に悪いことが起こる時)を書きました。(なお、新しい岩波現代文庫版ではこのことばは138頁にあります)


 クシュナーは自分と息子に降りかかったこの出来事を、旧約聖書の「ヨブ記」を取り上げながら論じました。ヨブは神を深く信じる善人で、とても幸せに暮らしていました。ところが、ある時神は悪魔から次のように言われます——「ヨブがあなたを敬うのはあなたが彼を幸福にしているからだ。ヨブから全てを奪えば彼はあなたを呪うだろう」と。これを聞いた神は「それでは、やってみるがいい」と悪魔に言い、悪魔はヨブから財産、家族、健康まであらゆるものを奪い尽くします。つまり、罪なき善人が全く理不尽な不幸に見舞われるのです。この時ヨブが放った「神はなぜ私をこんな目に遭わせるのか」ということばについて、それは神学的な問いではなく悲痛の叫びだとクシュナーは言います。ヨブのことばの後に続くのは「?」ではなく「!」だとはそのような意味です。


 じつは、私がこのことばの意味を身に沁みて感じたのはこれほど重い場面ではなく、ある友人関係でした。その友人は何かにつけて悲観的に「どうして自分はこうなのか」と言い続けていました。私は「そんなことはないよ」と慰めたり説得したりしましたが、何を言っても暖簾に腕押しで、私の言葉は彼女の中に全く入っていかないのがよくわかりました。その時に出会ったのがこのことばです。彼女の「どうして」の最後は「?」ではなく「!」であり、「?」に答えようとしていた私は見当違いだったことがその時はっきり腑に落ちました。ですが、「!」を前にしていったい何をすればよいのでしょう。「!」を受け止める難しさに、私は疲れて次第に彼女と疎遠になってしまいました。もちろん、私は人間にそんな受け止めはできないと言いたいのではありません。それができる人たちはたしかにいます。それゆえ、私はその後「!」をちゃんと聞くとは結局何をすることなのかを、いろいろな場面で考えるようになりました。


 さて、ほかならぬ神はヨブの「!」にどのように応じたのでしょうか。ヨブ記の謎めいた終わり方にはさまざまな解釈があり、クシュナーの本もまた当事者によるその解釈のひとつです。関心がある人はこの本やヨブ記にぜひ自分で触れてみてください。謎は解けませんが、それでも、人間の「なぜ私なのか!」という悲痛な叫びが、宗教のもっとも不可解な深部に触れる鍵であることがきっとわかるでしょう。


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