「君の利口な瞳を見開きなさい」
小川洋子(『博士の愛した数式』新潮文庫180頁)

君の利口な瞳を見開きなさい

 私たちは毎日いろいろなことを考えて生きています。今日のご飯は何にしようか。バイトのシフトをどこに入れてもらおうか。あの授業は面白くないな。友達と会おうか、どうしようか…。ですが、雲のように湧き出ては頭をよぎるこうした無数の考えとは別に、少し色合いの違う考えがふと浮かぶこともあります。たとえば、そもそも生きているとはどういうことだろうかとか、どうして人を好きになったりするのだろうかとか。普通の考えが生活に密着し、具体的に何かの役に立つものだとすると、こちらの考えはもう少しフワフワして抽象的です。たいていの場合、それは日々の具体的な忙しさに紛れて、「考えたって仕方がないこと」としてどこかへ消えてしまいます。

 この「考えたって仕方がないこと」のひとつに「永遠」があります。人間は決して永遠に生きることはできず、永遠に何かを残すこともできません。「永遠」には〈永遠〉に手が届きません。こんな空しいことを考える意味があるでしょうか。ですが、その空しさが逆に人間を駆り立てます。そして、たどり着けないその永遠が夢まぼろしではなく、実際にあることを人はなぜか知っているのです。宗教はもちろんその手の届かぬ在りかに関わっていますが、じつは数学にもそれは現れます。たとえば3.1415926535…と無限に続く円周率は、人間が計算で勝手に作り出しているのでしょうか。きっとそうではないでしょう。計算とは、すでにもう実在している「永遠」を果てしなく追いかける作業です。円というあの単純で美しい図形の中には、人間が決して到達できない永遠の真実が隠れているのです。

 しかし、どうやら人間はこの世界の中で永遠の真実にたどり着くことはないようです。その意味では、この世界は残酷な暗闇でしかありません。人間はその中で這い回りながらも、「永遠」がここではないどこかにあることを知っています。知っているからこそ、ここが暗闇だと分かってしまうのです。

 標題のことばは、ある小説の中で80分しか記憶のもたない数学者である「博士」が語ったものです。80分しか記憶のもたない博士は「永遠」からもっとも遠い残酷な暗闇を生きる人物です。「君の利口な瞳を見開きなさい」ということばは、その暗闇の中で、それを暗闇と知って絶望しつつもなお目を凝らし、届かぬ永遠を見定めようとする博士の生き方を示しています。数学という営みは、人間のこの無力で静かな希求のひとつにほかなりません。ですが、それは数学だけではないはずです。日々の忙しさの中で「私はいったい何をしているんだろう」とふと立ち止まる時、その人は自分の中にあるもうひとつの瞳を見開いています。その瞬間、人はこの世界を超えた遠い彼方から自分を呼ぶ何かの声を聴いている——そこには人間という存在に課せられた途方もない残酷さとかけがえのない尊さの両方が現れているように、私には思えます。

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