私たちは地面の上を歩くと同時に、 地面が私たちを歩かせている

岡田美智男(『弱いロボット』医学書院 67頁)

 最近、ある人から「この頃の学生さんは自分の意見について質問されたり、反論されたりすることを嫌がりませんか」と聞かれました。「それはどういうことですか」と尋ね返したところ、その人は「質問されたり反論されたりすることを人格否定されたと感じる人が多いように思う」とくわしく説明してくれました。

  そう言われて少し考えてみました。たしかに、大学に入ってくる人たちの中には「そもそも自分の考えを言うことすら嫌だ/自分の意見なんかない」という人が多くなったように思います。ですが時間が経って上の学年へと進んでいくうちに、少なくとも私が知る人たちはほとんどが「う~ん、自信ないけど私はこう考えます」と言うようになり、それに対して私が質問や反論をすることを逆に面白がり始めるようです。学生同士でひとつのテーマについて賛成反対に分かれて討論をする時も、「ディベートは知的なボクシングなんだから、よく考えて相手の急所を的確に殴りなさい!」と私が言うと、みな随分と楽しそうにそれぞれ案を出しながら、どう反論したらよいかを考えています。

 さて、このことに標題のことばはどう関係しているのでしょうか。認知科学者である著者は「人間が歩く」ということをロボット研究から逆照射して、「私たちは地面の上を歩くと同時に、地面が私たちを歩かせている」と語ります。これはつまり次のような意味です。歩く時、私たちは自分の身体を地面に委ねる。著者によれば、これはひとつの小さな「賭け」です。身体を受け止める地面とそれが及ぼす重力は私たちを制限し、私たちに反発しつつ、同時に私たちの身体を支える。「人間が歩く」ということは、人間と地面との間の、委ね/反発し/支えるというこの相互作用の中ではじめて成就します。私たちは最初からすべてを完璧にコントロールして歩くのではなく、「他に委ねなければ歩けない」という不思議な「賭け」を生きているのです。このことを著者は科学的に示します。この不思議は「歩く」時だけではなく、人間が何かと関係を結ぶあらゆる場所で—たとえば対人関係の中でも—不断に繰り返されます。もっと言えば、私たちは自分とはちがう「他人」という制限や抵抗と緩く関わる中で小さな「賭け」を繰り返し、その中ではじめて自分の言葉を形成し、「自分とは何か」を知り、「人」になっていくのだと著者は考えるのです。

 もとの話に戻りましょう。「自分の考えなんかない/意見など言いたくない」と思っていた人が、もし「自信はない」ながらも意見を言うことを楽しいと思うようになったのなら、質問や反論を楽しめるようになったのなら、私はあなたにとっての「地面」の役割を少しだけ果たせたということになるのでしょう。そして、その時じつは私の方もあなたを「地面」にしつつ、その前とは少し違う「自分」になっています。教員という一人の人間が授業の中で学生のまだ拙い、けれどもその人なりの言葉を面白く感じる瞬間、教員もまた著者が言う「賭け」を生きており、そのつど「人」になる自分を感じているのです。

 

 


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