本学では御命日勤行を毎月行っており、4・6・9・10月においては、勤行に引き続き学生による感話を行っています。 この記事では、9月28日(木)に厳修しました「親鸞聖人御命日勤行」での学生による感話を紹介します。

テーマ/大谷大学での学び

宗祖御命日勤行の様子(2023年9月)
宗祖御命日勤行の様子(2023年9月)

私は、歴史学科の同級生の多くがそうだと思いますが、歴史が好きで歴史学科に入学をしました。しかし、大谷大学に入り、歴史学の入門的な授業や人間学Ⅰ、その他の授業などを聞き、考えるうちに、私自身のこれまでの歴史に対する関心のあり方をふり返ったり、歴史を学ぶことの意味について改めて考えることが増えてきたように思います。今日は、そのような、大学に入学して以後、今まで考えていたことを、話したいと思います。

私は幼少時より歴史に触れることを好み、書籍・テレビ・パソコン等様々な媒体からフィクション・ノンフィクション問わず積極的に吸収していました。小学生になり、親からゲーム機器を買い与えられると、ゲームに登場する人物や背景となった時代のことについて夢中になって深く調べたことをよく覚えています。知識を頭の中に詰め込む行為は、当時さほど苦ではなかったため、書籍を読み漁り、休み時間になると図書館に入り浸っていました。そのようにして、歴史の知識を身につけていくにつれて、実際に歴史上にあったこととフィクションの作品との乖離が目につくようになってしまったのです。高校生になると、分別がついたのかその乖離を深く考えないようになりました。また、高校では、歴史の授業を受けたかったのですが、私の通っていた高校では地理と歴史の科目選択が出来ないコースに組分けられ、地理を受けざるを得ませんでした。そのような中で、大学へ進学するにあたり、世界史と日本史のどちらかを勉強する必要が出たため、塾で世界史をイチから学びました。そして、私は大谷大学に入学しました。

人間学の授業を受け、歴史とは自分自身の「背景」であり、自分や社会と不可分のもの、一体のものであることを学びました。また、『歴史とは時間的に空間的にもさまざまな「縁」によって成り立っていて、自分自身や人間の力ではなかなか十分に量り切れるものではないこと』にも気づくことが出来ました。そうした、自分と不可分で、なおかつ容易に量ることができない歴史を語るには、人間と歴史との関係についてくり返し深く考える必要があり、それによって歴史に対するひとつの見方を自分の中につくり上げていく必要があるのではないか、と思うようになりました。以前の私は歴史を知ることを、消費コンテンツの一つとして認識していたのではないか、と思い至りました。つまり、『歴史』を、自分の身とは直接関係しない、対象化された「モノ」として扱い、娯楽の一つと思っていたのかもしれません。

人間学をはじめとする大学での学びを通じて、自分や人間という存在と不可分の存在、いわば生きた存在として歴史と向き合おうと考えるようになりました。そうした、自分の前に広がっている歴史をどのようにとらえ、どのように学んでいくのか、過去の事実と対話しながら、自分の歴史に対する見方を鍛えていきたいと思います。

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