愚心、及び難し

聖徳太子『法華義疏』(『大正新修大蔵経』第56巻 72頁)

  日本の古代国家の基礎を築くことに大きく貢献したとされる聖徳太子は、『妙法蓮華経』という経典に対する注釈書において標題のことばを述べています。国内の困難な政治情勢に対応しつつ、大陸の大国ともたくみに外交を進めた聖徳太子は、優れた知能の持ち主だったに違いありません。同時に十人もの人の話を聞き分け、適切に対応できるほどに明晰な頭脳に恵まれていたとやがて言われるようになりました。
 

  そこで標題のことばを見ると、まず「なぜ、あの頭のよい聖徳太子はご自身のことを愚かだとおっしゃるのか」という問いが生まれます。日本語では謙遜して、自分のことを愚かと呼ぶことがありますが、聖徳太子の言葉には、単なる謙遜より一層深い謙虚さが含まれているように思います。その理由を理解するために、この言葉が登場する文脈について考える必要があります。
 

 『妙法蓮華経』において釈迦牟尼仏は弟子の舎利弗に、悟った者のみが完全に知ることができる「諸法実相」(あらゆる存在のありのままのすがた)について説明している場面があります。聖徳太子の『法華義疏』では、釈尊の説明に対する先人の解釈を紹介した上で、「しかし私の愚かな心で捉えることが難しいので、詳しく解説しません」と述べています。この言葉には、ありのままの世界を知る自分の能力に関する極めて謙虚な姿勢が表れています。一方、太子はその難しさを理由に、ありのままの世界を知ろうとすることを諦めませんでした。真摯に仏教の教えに向き合い、理解しようと努め続けたのです。
 

 私たちは、日頃の生活の中で物事を分かっているつもりで行動し、分かっている前提で事を運ぼうとすることが多いですが、標題のことばは私たちのその姿勢に対して厳しく問いかけてきます。「あらゆる存在のありのままのすがた」を知るということを指標に、正直に自分が理解できていることを省察してみると、実はそれがごく部分的で偏った見解に過ぎないということを認めざるを得ません。この広くて複雑な世界を本当の意味でありのままに捉えようとすれば、私たちの知能の限界に必ずぶつかります。聖徳太子は、広い世界を狭い思考の中で捉えることができないという事実を知り、自身の愚心について告白しています。
 

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって、私たち人間の知能の限界が如実に思い知らされました。予測しなかったことが日々、起こる中で、多くの政治家は自信たっぷりに自分たちの希望的観測が必ず実現されると言っていましたが、状況が複雑で流動的であるから、どうなるかは分からないと、謙虚に自身の知能の限界を認める政治家はほとんどいませんでした。気候変動等、世界が直面している複雑な問題に立ち向かう際に聖徳太子の謙虚な姿勢から大事な示唆が得られると思います。
 

 私たちが本学で学問をしていく中でも太子の姿勢は重要な模範になります。分かったつもりになっていれば、学問の問いが生まれることもありませんし、学ぼうとする必要性も見えません。知の限界を認めることは、あらゆる学問の出発点です。その限界を知りつつ、世界をありのままに知ろうとすることが、あらゆる学問の最も重要な営みです。
 

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