汝、豈(あに)有礙(うげ)の識を以て彼(か)の無礙(むげ)の法を疑うことを得んや。

道綽『安楽集』(『真宗聖教全書』一 大八木興文堂 400頁)

  私たちが生活をしていく中で、自分たちの判断力を疑うことはほとんどありません。自分が適切に状況を捉えていると信じ、その状況把握の上で行動の内容を決定し、生活の様々な問題の解決に取り組みます。想定通りに事が運ばなかったとしても、多くの場合はその理由を、自身の認識の甘さや誤解に求めようとせず、自身の力の及ばない状況や他人の行動に求めてしまいます。

   標題のことばは、私たちのその姿勢に対する厳しい問いかけです。道綽(どうしゃく)<562-645>は、私たちが信頼し切っている認知能力や判断力を「有礙の識」と呼び、私たちの認識の問題に目を向けるように促しています。そして道綽は、私たちの認識には大きな礙(さまた)げがあると述べていますが、日頃の生活の中で私たちは滅多にその礙げに目を向けません。

 しかしこの問いかけを受けて、正直に自分の判断力や認知能力を省察すると、その脆(もろ)さと乏(とぼ)しさを認めざるを得ません。私たちの認知能力で知り得ることは、実は一面的で、極めて限られています。自分に近い物事についてはある程度、正確に把握することができたとしても、世界の反対側で起こっていることはおろか、隣の教室で起こっていることについてすら正しく理解することができません。家族、友人、学生や先生のことを知っているという前提でいつも動いていますが、実際には最も親しい人でさえ、部分的にしか知らないのです。 
 

 その部分的な知識に基づいて、私たちは様々な判断を下しますが、その判断の基準にも大きな礙げがあります。その判断は、常に自分自身を尺度になされますので、自分の都合から自由になることができません。正しく物事を捉えていると考え、最善と感じることをやっても、友人を傷つけたり、家族に怒られたり、想定していた結果と正反対のことが起こったりすることがよくありますが、それは、私たちが部分的な知識に基づいてひとりよがりの判断をして行動しているからです。
 

 そもそも私たちの想定通りに物事が起こることはほとんどないにも関わらず、私たちは絶えず想定し続ける心を信頼して、その想定を追いかけ続け、当たったときは喜び、外れたときは悩み苦しみます。
 

 このように自分自身の判断力を信じ切って行動することによって、どのような結果がもたらされるでしょうか。その認識と判断は、決して物事を全体的に把握し、正しく捉えることができていませんので、当然、多くの過ちを犯し、想定外の問題に次々とぶつかることになります。そして「こんなはずじゃなかった」と、置かれている状況を恨むことや、「こんなに頑張っているのに、なんで幸せになれないのか」と自分を憐れむことになるでしょう。
 

 道綽のこのことばは、私たちが日頃、拠り所にしている自分たちの思いの問題と限界に目を向けて、それがどれほど信用に値しないかに気づくよう促しています。そして私たちがいつもしている小賢しい判断をせずに、全てのことをありのままに認める「無礙の法」を、本当に信頼できる真の拠り所とすることを勧めているのです。
 

関連記事