水の潤長するに莦(しょう)〈悪草〉葀(かつ)〈瑞草〉の異なきが如し。

『浄土論註』巻上(定本『親鸞聖人全集』第8巻 法蔵館 48頁)
※「」の本来の表記は、草かんむりに木と舌。

 曇鸞(476–542)は中国の南北朝時代を生きた僧で、天親の『浄土論』を註釈し、『浄土論註』を著わしたことで知られている先達です。その中で、浄土とはどのような世界なのか、そこに人間のどのような姿が見据えられているのかということが一つ一つ確かめられています。ここに挙げたのは阿弥陀仏の心を譬えた言葉です。現代語に改めてみましょう。

 (阿弥陀仏の心は、ちょうど)水が(植物を)潤(うる)おし育(はぐく)む場合に、(これは)悪い草だ、(これは)いい草だといった区別がないように(分け隔てを超えている。)

 私たちは皆、幼い頃から「分け隔てをしてはいけない」と教えられて育ち、そのことをよく知っています。けれども、「いけないと知っている」私は「分け隔てをしていない」と言い切れるでしょうか。胸に手を当てて考えてみればわかるように、「してはいけないと知っている」ことと「していない」ことは、決して同じではないのです。

 自分の価値観によって是非善悪を生み出し、それを基準として思わず知らずに分け隔てをしているのが私たちの心ではないでしょうか。その結果、他者を好んだり嫌ったりするばかりか、自分のことでも有頂天になったり自己嫌悪に苦しんだりします。そして、その原因が自分の心だとはつゆ知らず、どこか居心地の悪さを感じて暗中模索のようになっているのが私たちなのでしょう。そのような私たちの姿に気づかせることこそ、阿弥陀仏の心がこの言葉のように教えられている理由なのです。

 居心地の悪さの原因が自分の心だと気づくというのは、一見とても窮屈なことのように感じます。けれども本当にそうでしょうか。例えば、どうも体調が悪いけれども原因がわからないという状態は私たちにとって非常に不安です。しかし、きちんと診察を受けて原因が明確になれば一安心です。もちろん、すぐに体調が万全になるわけではありません。ただ、自分の身体とつきあっていく方向が定まります。同じように、居心地の悪さの原因が分け隔てをする自分の心だと気づくことで暗中模索のような状態を離れて、自分を見つめていく方向が定まるのではないでしょうか。

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