思考をあるがままに委ねるのだ。それが修行のやり方だ。

                                                                     シャルザ・タシ・ギャルツェン(『知恵のエッセンス ボン教のゾクチェンの教え』 春秋社 87ページ)

  「ボン教」は、仏教伝来以前の土着の信仰を基盤としつつ、仏教の影響を受けて成立したチベットの宗教です。この宗教で最高の教義とされるのが、「ゾクチェン(大究竟)」とよばれる教えです。標記のことばは、この教えの修行を極め、悟りを得たシャルザ・タシ・ギャルツェン(1859–1934)というボン教僧によって著されたゾクチェン修行法の指導書の中に見られます。

  「思考をあるがままに委ねる」というのは、一見簡単なことのように思えますが、外界のものごとにとらわれて暮らしているわたしたちにとって、実はこれほど難しいことはありません。では、どのようにすれば、このような考えに到ることができるのでしょうか。

  同書の中ではまず、通常、わたしたちが「そこにある」と認識している事物はすべて、思考や意識によって作り出されているにすぎないと説かれています。そのように考えると、次に、「とはいえ、思考や意識を働かせる心は確固として存在しているだろう」という思いが浮かぶでしょう。ところが、心がどこから生じ、どこに行き、どこにいるのかと分析してみても、明確な答えを得ることはできません。なぜなら、心というものも実体を持ち独立して存在しているものではないからです。このように考えると、事物が存在することや心が存在するという、わたしたちの常識が突き崩されてゆきます。それが、本格的な修行の準備段階だと説かれています。

  このように常識が突き崩された後、本格的な修行の段階に入ると、真実をありのままに見通す「根源的な明知(リクパ)」というものが示されます。そして、その存在を理解し、その境地にとどまって、事物をありのままに見通せば、「人間のいとなみによって形成されたものは無常である。それ故、そうしたものによって真実にたどり着くことはできない」と、世俗的なものに縛られることの無意味さが理解できると説かれています。その上で登場するのが、標記のことばです。

  認識や心の本質、根源的な明知(リクパ)に関する同書の論理展開は極めて難解です。そもそも「思考をあるがままに委ねる」だけでよいのであれば、これほどまでに難解な言説は不要のように思えます。しかし、あえてそのような言説がなされているところに、簡単な答えのみを求めることなく、格闘してゆくことの必要性が示されているように思えます。制度・思想・文化、地位、名誉などは、形成されたものにすぎず、永遠なものではありません。しかし私たちは、それらが確固たる拠り所だと常識のように思っています。そうした私たち自身のあり方自体に目をむけることが、修行の核心である。標記のことばは、そんなことを知らせてくれるもののように思えます。
 

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