あなたは私にとって、どうでもいい人じゃないよ

児玉真美(『新版 海のいる風景』生活書院 257頁)

  このことばを語った著者には、重い心身障害がある「海」という子どもがいます。著者はいわゆる「よい母親」ではありません。このことばから10年後、彼女は「よく殺すこともせず死にもせずに、ここまで生き抜いてきたなぁ」と自分を振り返っています。天職とまで思う仕事を海のために手放した著者は「なぜ子どもに障害があるというだけで、母親は自分の人生を生きることを許されないのだろう?」と自問します。標題のことばの背景にはそれほどまでに激しい親と子の「権利の相克」があります。そして、家族の抱える苦しみをどこまでも他人事として葬ろうとする社会があります。その背景なしでは、このことばのきれいごとではない意味は決して正しく伝わりません。それを本当に知りたい人は、ぜひこの本をご自身で手に取って読んでみてください。

  それでも私がこのことばを切り抜いたのは、これが誰かと本当に出会った人間の腹の底から出た真実の言葉だと思うからです。著者は「人間が出会って、それぞれが持っている何か本当のものが、ほんの小さなカケラでも、その関わりの中に落ちたら、その人とはもう二度と出会わなかったことにはできない」と言います。著者は「海」という人間に出会ってしまった。その出会いは彼女に「障害児のよき母親」であることを強い、社会の残酷さを教え、彼女からさまざまなものを奪った。それでもやはり、彼女は海と「出会わなかったことにはできない。出会う前の自分とは、もうどうしたって違う自分にしかなれない」のです。その自分に嘘をつくことは彼女にはできません。ここには人間が自分自身に対して持ちうるぎりぎりの、ほとんど残酷とも言えるような誠実さがあります。人は他人に嘘をつくことはできても、自分に嘘をつき続けることはむずかしい。自分に対する嘘は人を歪めます。著者は揺れ苦しみながらも、自分の人生に落ちてきた海と真っ直ぐに向き合い、それによって自分に生じるあらゆる感情に向き合い続けます。そのような人間の、極限の誠実から生まれたのがこのことばです。

 「あなたは私にとって、どうでもいい人じゃないよ」——著者は「ケア(care)」という言葉のもつ本当の意味は「世話をする」ということではなく、これだと言います。「どうでもよくない」「気にかかる」という「ケア」のこの真の意味は、自分の人生にたまたま現れ、向かい合わざるをえなくなった海と「出会わなかったことにはできない」という彼女の誠実さに支えられています。この身を削るような誠実さだけが、私を自分ではない誰かに本当に出会わせる。私にとってどうでもいい人ではない、私を超える「あなた」に私をつないでくれる。私にとって本当に大切な人がその時はじめて世界の中に現れる。「どうか、子どもたちに“I care”……あなたは私にとって、どうでもいい人ではないよ、という心を持ってやってください。親が安心して子どもを託して死んでいけるところであってください」と著者が私たちに切に願う時、私たちもまた自分に対する誠実さを試され、誰かと本当に出会えるかどうかを試されているのです。

 

 


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