生に縁りて老死あり。

『縁起経』(『大正新修大蔵経』第2巻 547頁)

  新学期が始まり、新入生の皆さんを迎えることができて嬉しく思います。生まれてきたことを心の底から喜べるような生き方とはいかなることでしょうか。意味のある人生とはいかに生きることによるのでしょうか。生まれてきたことを苦しみとしか受けとめられないような生き方から転じて、生まれてきたことを本当に喜ぶことができるような生き方があると、釈尊は思索しました。では、それはどのように生きることなのか。皆さんと、このようなことを一緒に考えてみたいと思っています。

   『縁起経(えんぎきょう)』という短い初期経典が残されています。経典のタイトルにある縁起(梵語: pratītya-samutpāda / パーリ語: paṭicca-samuppāda)とは、縁(よ)って起(お)こること、つまり原因によって生ずることを意味する語です。人間の苦しみがいかなる原因によって生ずるのかという釈尊の観察を指して用いられてきた言葉です。例えば、無明(むみょう)・行(ぎょう)・識(しき)・名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・触(そく)・受(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)という十二の項目を立てて苦しみの原因を順番に観察することが、よく知られています。こうした観察を十二支縁起と呼びます。
 

 釈尊は苦しみの原因についての観察の一段階として「生(しょう)に縁りて老死あり」と確かめています。生(jāti)とは誕生のことです。老死(jarā-maraṇa)とは文字通り老いることと死ぬことです。四門出遊(しもんしゅつゆう)のエピソードで知られる老病死を見たという苦しみの経験を意味します。この経典には「生に縁りて老死あり」に続いて「愁・歎・苦・憂・悩」が起こると説かれています。苦しみの経験といっても、それは例えば愁いや悲しみや寂しさや空しさや不安などとして立ち現れ、喜んで生きることができなくなることなのです。私たちは職業や地位や人間の関係性などの様々な点で何者かになろうとし、また何者かであることを、喜んだり悲しんだりしながら生きています。そして、生きる意味や喜びを見いだせなくなり、生きる意味などいったいどこにあろうかと疑わざるを得なくなってしまうことさえあります。釈尊は、これが人間としてのひとつの姿だと観察しました。 
 

 しかし、老死の原因が誕生にあるとは、ある意味ではあたりまえではないかと我々は思ってしまいます。こうした観察にどれほどの意味があるのか、と。一見そう思われるけれども、生まれたからに他ならないとの観察には、人間であるかぎり苦しみからは逃れられないということが含意されています。人間として生まれたという事実に内在する苦しみを見据えて、縁起の観察が開始されたと見なければなりません。努力によって生涯をより良いものにできるかできないかということがあるとしても、人間として生まれ、何らかの境涯にあるということは、究極的には努力だけでは超えられないこともまたあるはずです。だからこそ、苦しみの原因を尋ねるというこの観察は、老病死を前にしても奪い去られないような人生の意味を見いだすことができるかどうかを問題にしてはじめて意味を持つものだと言って良いでしょう。
 

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