行くさきむかいばかりみて、足もとをみねば、
踏みかぶるべきなり。

『蓮如上人御一代記聞書』 (『真宗聖典 第二版』東本願寺出版 1063 頁)

 本願寺第 8 代宗主である蓮如(1415~1499)とその門弟たちの言行がまとめられた『蓮如上人御一代記聞書』には、浄土真宗の教えや心得が平易な言葉でいきいきと語られています。

 標題の言葉は、「歩いて行く先の向こうばかり見て、自分の足元を見ないでいると、踏み誤るであろう」という、平易な教訓のような言葉です。しかし、この言葉には続けて、「人の上ばかりにて、わがみのうえのことをたしなまずは、一大事たるべき」とあります。他人のことばかりを見て、自分自身のことを省み慎まなければ、重大なことになるだろうというものです。仏法を聞く上で、他者の言動や教えを聞く姿勢を穿鑿(せんさく)したりして、自分自身が問題とならないありようを誡めるものと言えます。つまり、標題の言葉は、そのことを言い表すたとえとして語られたものでした。

 このたとえは現代社会を生きる私たちにとって、たとえ以上の大きな問いかけの意味があります。私たちは、豊かで便利な社会の実現を「行くさきむかい」と見定め、ひたすら走り続けてきました。そこに芽生えた飽くなき欲望は、大量消費による環境破壊や格差社会を生みました。また合理化の名のもとに、自分にとって都合の悪いもの、煩わしいもの——それが人間関係であっても——を排除することによって、かつてない便利さと同時に、言い知れぬ孤独感や虚しさが同居する社会が生まれました。

 今こそ私たちが手に入れたものと、その引き換えに失ったものの大きさを考える必要があるはずです。にもかかわらず私たちは、これまでの歩みに根本的な疑問を持つことがありません。また、何をよりどころとして生き、何を本当の願いとするものとしてあるのか、そのことから目を背けているようにさえ思われます。この「わがみ」こそが社会を生み出している一人に他ならないにもかかわらず、自分自身を棚上げしてしまっていると言わなくてはなりません。

 これからの社会は AI の進化などによって、情報化、効率化の流れが益々加速していくでしょう。そして、その流れについていくために、「行くさきむかい」だけをみて立ち止まることさえ許されない社会が現実のものとなりつつあります。この蓮如の言葉は、仏法によって照らし出される、「わがみ」と向き合うことの大切さが説かれたものであると同時に、現代を生きる私たちに、私自身の本当の願い、私たちが進むべき道とは何かを一人一人に問いかけるものと言えます。 

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