慶ばしいかな、心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、念(ねん)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す。

親鸞『教行信証』(『真宗聖典』東本願寺出版部 400頁)

  標題のことばは、親鸞の主著『教行信証』の跋文(ばつぶん)に述べられているものです。その論述を閉じるにあたり、親鸞は、念仏の教えに出会い、教えに生きる慶びを、詩的な対句表現を用いて詠(うた)っています。自身の心のあり方に大いに悩まされた親鸞は、念仏の教えによって、確かな依り処と方向性を見出し、思いをかけるべき対象をも得たと仰っています。

  私たちが正直に自分の内面の生活を省察しますと、多様な欲求がいつも心に湧き起こっているということに気づきます。朝に目が覚めた瞬間から夜に眠りにつく時まで、私たちの心の中の声は、何度も「したい」「したくない」といった言葉を発します。しかも、私たちの心に湧き起こってくる欲求は、時として相矛盾することがあります。目覚まし時計が鳴った時、「起きたくない。もっと寝たい」という思いと同時に、「卒業したい。先生に認められたい。親に怒られたくない」という思いも起こります。私たちの内的生活の大きな部分は、このように矛盾する欲望の葛藤で占められています。

 親鸞は、矛盾する欲望が絶えない自身の心を省察し、標題のことばの前半では、その心が「弘誓の仏地」にしっかりと根付き方向づけられていることを慶んでいます。「弘」は「ひろい」と訓読し、「だれにでも当てはまる」ということを意味します。「誓」は「ちかい」と訓み、人間の最も深いところの願いを指します。真宗の伝統では、誰にも共通しているとされるその願いは「完全な智慧と慈悲を兼ね備えた存在になりたい」と定義されます。

 無秩序に湧き起こってくる私たちの多様な欲求の中で、どれを優先すべきということは必ずしも明白ではありません。そのため私たちは、それらの欲求によくよく悩まされます。この親鸞のことばは、智慧と慈悲の完成を願う欲求をこそ、人生の指針とするように勧めています。その大きな願いの実現に向けて歩むことが、本当に満足のある、慶ばしい人生を実現するために不可欠であったと仰っているのです。

 私たちの内的生活は、欲望だけではありません。他にも様々な思いが私たちの心に浮かんで来ます。過去を悔やむことも、未来について不安になることも少なくありません。しかしこのような思いは、本当に私たちの生活の現実を捉えているとは言えないでしょう。日頃未来に対していだいている不安が、想像した通りに現実になることはめったにありません。また過去の失敗や過ちは、どれも思いがけない形で現在の私たちを形成していますから、悔やむべきではありません。

 実際に私たちが生きている現実は、私たちの日頃の思いを超えた「難思」の事柄です。しかし私たちの心には、決して変えられない過去の事実を悔やむ思い、決して到来することのない未来を恐れる思いが次々と湧き起こって来るのです。標題の対句の後半は、過去や未来について思い煩うことを止め、思いがけない形で目の前に広がる「難思」の現実を見て、その展開に思いをいたして生きるよう私たちを促しています。

 


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