「身(み)、自(みずか)らこれをうくるに、たれも代(か)わる者(もの)なし。」
『仏説無量寿経』(『真宗聖典』東本願寺出版部60頁)

身、自らこれをうくるに、たれも代わる者なし。

 標題のことばは私たちの生のあり方について一つの明白な事実を述べています。生まれ持ったこの「身」は決して他人と入れ代わることができません。アニメや映画では他人と入れ代わる話がよく登場します。言うまでもなく、現実の世界で私たちは生まれた時に授かった身を他人と交代することはできません。しかしそのような物語が私たちの関心を惹く理由は、私たちがどこかで誰かと交代したい、入れ代わりたいという思いがあるからでしょう。

 誰しもが、友達の容姿、運動神経、学力、家族構成などを羨んで、「その人と代われたらいいのに」と一度は思ったことがあるでしょう。あの人の家で育てられたら、何と素晴らしい人生を送れただろうという嫉妬心が一度でも生まれなかった人はほとんどいないと思います。また難しい試験、もしくは悪いことをしてしまって罰を受けなければならない時に、他の人に代わりに受けてもらいたいと思ったこともあるでしょう。しかしこのことばは、そのような発想が妄念であるということを厳しく指摘しています。

 このことばは『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』という経典の中に説かれています。この箇所では語り手の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)は人間の迷いによって起こる苦しみを詳しく説明しています。標題のことばの直前に釈尊は「独り生(しょう)じ独り死(し)し独り去(さ)り独り来(き)たりて」と言って、人間の孤独について述べた上で、人間が決して自分の身を他人と交代することはできないと仰っています。それは紛れもない事実ではありますが、このように直接に言われると、何だか切ない、悲しい気持ちになります。私たちには自分たちの孤立を認めたくない側面があり、そして自分の人生をありのままに引き受けずにそれから逃れたいという願望も根強いので、このことばは冷たく聞こえてしまいますが、その寂しい孤独の反面、このことばは私たちの独自性について非常に重要かつ積極的な意味も持っています。
 
 「代わり得ない」ということをより肯定的に表現すると、「かけがえのない」ということばになります。生涯を通じて一人の人間として生きる中で私たちが誰一人とも身を交代することができないということは、私たちが授かっている身が完全に独自なもので、他のいかなるものと代替され得ないということを意味します。私たち一人ひとりは、そのような独自で代替できない存在ですので、今、生きているこの身は、世界にただ一つのかけがえのない存在でもあります。靴を履いている間に決して他の人がその靴を履くことができないと同様に、今、この身がある場所に決して他のものは入ることができません。

 このような私たちの存在の独自性について一歩踏み込んで考えると、代わり得ないこの身が、世界に完全に独自の貢献ができるということを意味します。私たち一人ひとりが他と交代できない独自の存在ですから、その存在にしかできない仕事も常にあります。特定の両親のもとで生まれた特定で交代不可能な身を授かっていますから、この身に独自の責任もあれば、独自の可能性もあります。

 一見すると寂しいこのことばは、私たち一人ひとりの「かけがえのなさ」と「世界に対する貢献の独自性」について大事な視点を示しています。

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