仏教教育センター
きょうのことば
きょうのことば 2024年8月
「わたしは勝れている」「わたしは等しい」また「わたしは 劣っている」と考えている人は、それによって争うであろう。
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ラッセル(『幸福論』岩波文庫 254頁)
バートランド・ラッセル(1872-1970)は、イギリスの著名な哲学者であると同時に、婦人解放運動や平和運動をはじめとして、さまざまな現実の社会改革に積極的に関わったことでも知られています。こうした活動により、ラッセルは生涯に 2 度の投獄・拘留(2度目は 80 代後半)を経験しています(ちなみに彼は結婚も 4 度しており、4 度目の結婚は 80 歳を過ぎてからでした)。最初の投獄の時、面会に来た友人から「君はなぜそんなところ(牢獄)にいるのだ」と尋ねられたラッセルは、友人に対して「君こそ、なぜそんなところにいるんだ」と切り返したといいます。
『幸福論』という本もまた、こうした機知に富んだ言葉で満ちています。しかし、この本は「我がこと」として読むならばなかなか辛辣で手厳しい。ラッセルは「ほかの方法では治しようもないくらい、どっぷりと自己に没頭している不幸な人びと」に対して、その不幸はちゃんと正しい努力と訓練をすれば抜け出せるものなのだ(逆に言えば、抜け出せないのはお前がその地道な努力をしていないからだ)と強く語りかけるからです。
標題のことばもまた辛辣で手厳しい内容を含んでいます。私たちは真理を派手でおもしろいものや英雄的で極端なものだと考えがちです。しかし、平凡なものの中にも真理はあります。彼がその一例として挙げているのは「人事を尽くして天命を待つ」というよく耳にする処世訓です。この凡庸でおもしろくもない言葉は、しかしきわめて深い意味を持っています。人間は徹底的に努力する一方で、その努力にしがみつくのではなく、どこかで運を天に任さねばなりません。そのあきらめは努力の果てに起こる場合もありますが、むしろ努力の最中に、努力と表裏一体に起こるものです。努力と一対のこのあきらめは自分の力の正確な見極めであって、やけくその放棄ではありません。この見極めはとても難しい。それゆえ「人事を尽くして天命を待つ」ことができる人は、努力とあきらめの絶妙なバランスを苦労して身につけた人であり、この「バランス」こそじつは本物の真理なのです。
「おのれの真実の姿に進んで直面しようとする態度には、ある種のあきらめが含まれている」とラッセルは言います。自分を必要以上に卑下することも、逆に盛って膨らませることもなく、恐れずに等身大の自分の姿を見る時、そこには「私はまだここまでだ」というリアルなあきらめが必ず伴います。ですが「あきらめる(諦める)」ということは「明(あき)らめる」ということでもあります。おのれの小さな真の姿を知った者だけが、そこを足掛かりにまた一歩先へ進むことができる。本当に生きるとはそういうことです。「おもしろくない」真理は時に辛辣で厳しいですが、ラッセルは愛情に満ちた皮肉で、等身大の私たちを励ましてくれているのだと私は思います。