仏教における智という力

五世紀に世親せしんが著した『阿毘達磨倶舎論あびだつまくしゃろん』という書物には、仏陀の「智」は「力」であると明言されている。理由は、無礙むげだから。つまり、何によっても妨げられないからだと言う。しかも、智によって知られるべきことは無限だから、仏陀がもつ智の力もまた無限だと言う。仏陀は一切のことを悉く知る智という力を有する。これらは、仏陀には徳性として十の力があると語る文脈のなかで記されている。

では、その仏陀の智の力とは私たちにとっていかなる意味を持つのか。もちろん、老病死する身体をもってこの世界に生まれてきた人間が仏道を歩もうとする時にどんな意味を持つものなのか。

山本義隆『磁力と重力の発見』は、近代自然科学の成立にとってのキー概念は物理学に限るならやはり万有引力だとして、「『近代科学の端緒と見なしうるのは、力学で言う力の明確な把握と物理学の基本構造への力の組み込みであり』、したがって一七世紀の段階では『遠隔作用の発見が西洋科学という組織における基石のひとつとなった』のである」と言う。私たちにとって「力」という言葉は、誰もが日常の中で使っているものであるけれど、この書は、近代自然科学とくに物理学の世界で、「力」という概念がどのように捉えられてきたのかを描き出してくれている。「力」って何だろう。

もういちど、仏教の思惟世界に戻ってみよう。仏教が語る「力」なるものは、何かしら「遠隔作用の発見」として現れてくるものであると言ってみるとしても、近代自然科学とはまた別の言説世界を持っている。「力」の内実は、「智」であるのだから。しかも、老病死の苦しみを享受しなければならない人間として生まれたことに端を発して起こってくる問題について言及するなかで、「智」という「力」について語り出すのだから。仏教は、「老病死の苦しみ」「老病死の苦しみをこえて生きる」という主題から逸れて「力」について語ることはない。

PROFILEプロフィール

  • 箕浦 暁雄 教授

    【専門分野】
    仏教学

    【研究領域・テーマ】
    古代インド仏教思想/アビダルマ/世親『倶舎論』

関連記事