銭湯のジャイアン

銭湯が好きだ。仕事でどんなに遅くなっても、0時ギリギリに駆け込むほど好きだ。だが、今回書きたいのは銭湯愛ではなく、学生の頃そこで経験した出来事についてである。

病身のAが一人で風呂に来る。かなり危なっかしくて皆心配している。彼女はある時ついに浴槽内で具合が悪くなってしまった。溺れるAを風呂から引っ張り出そうとするが、彼女は無意識に抵抗して暴れる。それをようやく三人がかりで助けた。その時誰よりも早く動いたのがBで、翌日のBは青あざだらけだった。後日、BはAの家族に猛烈に抗議して—「一人で来させるの危ないやろ!」—Aは銭湯に来なくなってしまった。

友人たちにこの話をした時、「Bみたい人がいちばん困る、要するに銭湯のジャイアンでしょう。そういう人がいちばん弱者を排除する」と言って一様に嫌な顔をされた。そう、まったくその通りだ。結局BはAを「排除」したのだから。でも、と私は思う。わざわざAが来る時間に合わせて銭湯に来ていたのはBだった。「あー、めんどくさ」と言いながら、いつも目の端にAを追い、真っ先に異変に気づいたのもBだった。

Bの肩を持つ気はない。Bの「善意」は上から目線で、やはり差別的だ。BがAを気遣っていたのも、まさに彼女が銭湯の強者だったからだろう。だが、他方で私はAの方へさっと走っていった真っ裸のBの姿に善悪で割り切れない何かがあるように思えてならない。あれが等身大の「人間」ではないか。Bの行動の中に、もし単純な強者-弱者の関係には終わらない矛盾に満ちた人間の姿があるとしたら、それを捕まえる言葉はどこにあるのだろう。Aを排除しないと同時にBをも排除しない世界はないのだろうか。

銭湯でのさまざまな光景は、解けない問題とその答えを同時に私の目の前に差し出す。私が銭湯を好きなのは、もしかしたらそのせいかもしれない。あ、結局銭湯愛を書いてしまった。

PROFILEプロフィール

  • 脇坂 真弥 教授

    【専門分野】
    宗教哲学/倫理学

    【研究領域・テーマ】
    宗教哲学/倫理学/カント/シモーヌ・ヴェイユ