「間」を感じとる高校野球

「高校野球」と聞いて、何が頭に浮かぶだろうか。多くの人は甲子園が浮かぶかもしれない。子どもの頃から、我が家のテレビには高校野球が流れていた。登場人物が、高校野球のお兄ちゃんから、やがて夢を叶えた同級生に変わり、そして息子の世代の高校球児と変わっていった。

最近、地方大会から球場に行って観戦するようになった。息子の先輩や同級生がプレーしているからである。テレビに映る高校野球、すなわち全国大会に比べれば、パワーやスピードは劣るかもしれない。しかし、それぞれのプレーに練習に裏付けられた意図や動きがあり、一つひとつのチームにドラマがあることを感じ取れる。

ある試合の終盤で、ツーアウト満塁、一打逆転の場面があった。カウントがスリーボール、ツーストライクになった瞬間、球場にそれまでと違った雰囲気が漂った。「baseball」を「野球」と訳した我が国だが、野球はもはや日本のスポーツと思う瞬間である。それは「間」を楽しむからだ。アメリカでは時間短縮のためにピッチクロックが導入されている。プレー間に存在する間は、確かに野球そのもののプレーを観戦するためには不必要なのかもしれない。しかし、間というゲーム中の余白があるからこそ、プレイヤーだけでなく観客もそこに参加できる。投手に願いを込める人、打者に期待をかける人、好ゲームの展開に胸を躍らせる人。それぞれが、それぞれの想いで野球を楽しむことができる。

「雨の中の甲子園球場……」と実況をしながら、夕立の公園で夢中に野球をしていた少年時代。今思えば、実況をしながら野球を楽しめたのも、間があるからこそ。夏の高校野球も熱中症対策のために変革が求められている。時代に応じて変化していくだろうが、この「間」を楽しむ野球はなくならないように感じる。動の中に静を見出してきた我が国だから。

PROFILEプロフィール

  • 栫井 大輔 准教授

    【専門分野】
    体育科教育学/教師教育学/和文化教育学

    【研究領域・テーマ】
    体育科教育/教師教育/授業研究/和文化教育