スマートな社会と挨拶

ある風の強い木曜日に、みんなに会いたくなったクマとコブタは、ウサギの家に挨拶に行く。大事な用事しか頭にないウサギは、クマとコブタが「木曜日おめでとう」と挨拶にきても、その意味が分からない。ウサギとクマは全く別の価値観をもって生活している。

この「ウサギとクマ」の話は、石井桃子訳で言わずと知れたA.A.ミルン作『くまのプーさん』(正確には『プー横丁にたった家』)の一話である。筆者が大谷大学の教壇に立つようになってから、なぜか口にするようになった、言わば「持ちネタ」の一つでもある。我ながら、よく飽きもせずに「クマクマ」口にしていると呆れるが、なかなかどうして奥が深い気がして、気が付くと、また今年も「ウサギとクマ」の話をしている。その理由は、クマがかわいく、癒しになることに尽きるかもしれないが、この「癒し」の根を尋ねゆくと、現代社会を考えるヒントがある。

「営み」の語源のひとつが「暇なし」であることを想起してもよいかもしれないが、日々の暇なしの営みで大事なことに忙殺されているのが、スマートなウサギである。厳密に言えば、イギリスのクマなのでイギリス英語で「クレバー」と言っているが、クマもウサギを「スマート」と評している。この言葉は、サンデル教授を持ち出すまでもなく、アメリカを筆頭に現代社会で好まれている。私たちの身の回りでも、スマートフォンが日常に浸透しつつあるし、スマートに立ち振る舞い、仕事をサクサクこなしていく姿は確かに格好いい。しかしその一方で、ますます暇をなくして、時間や費用の見返りに乏しい「挨拶」のような意味のよく分からないことが切り捨てられていないか。「頭が悪い」と自称するクマは「頭がいい」スマートなウサギに挨拶に行った後に「それだからなんだね。あのひとが、なんにもわからないのは」とコブタに漏らしている。

さて、「わかっていない」のはウサギとクマのどちらであるか。

PROFILEプロフィール

  • 鳥越 覚生 講師

    【専門分野】
    倫理学/美学/宗教哲学

    【研究領域・テーマ】
    ショーペンハウアー/身体/無関心/挨拶