知ることと寄りそうこと

大谷大学が掲げているフレーズに「寄りそう知性」というものがある。少し前のことであるが、この言葉を目にしながら、ふと20年ほど昔の会話の一場面を思い出した。

学生時代に、障がいのある子どもたちと遊ぶボランティアをしていた時のこと、ボランティアグループで知り合った、ある保護者(Yさん)との会話である。グループのリーダ—をしていた私は、ボランティアと保護者が参加するミーティングの場で、障がいのある子どもを育てる保護者のことをボランティアはもっとよく知らないといけないという趣旨の発言をした。その際、Yさんが「いまのあなたが知るというのは、無理だと思う。それより、寄りそうということが大切ではないかな」と発言された。普段自分がいかに軽く「知る」という言葉を使っているかを思い知らされるとともに、「知る」ではなくて「寄りそう」ことが大切という言葉の具体的な意味については今でも時折考えることがある。

最近、このことを考える視座を教えている言葉にふれることができた。それは
 命がけであることは、実は命がけという言葉をも許さない。いうならば、静かなものです。
というものだ。命がけの出来事が起こっている現場で生きることと、それを情報として知り語ることとの違いを照射する言葉のように感じた。

問題を大きな声で叫ばなければ誰も見向きもしてくれない状況は確かに存在するだろう。しかし、問題が起っている現場は、その言葉の更に先にある、「静かなもの」なのかもしれない。「静かなもの」という表現は、細心の注意を払っても、真摯な思いをもって向き合っても、知り得たとはいえない問題の深さ、広さが「命がけの現場」には存在することを教えている。また、だからこそ、知り尽くしたとはいえない現場にいかに関わり、どのように「寄りそう」ことができるのか、という問いに応じることのできる知性を磨くことが重要な意味をもってくるように思う。

「寄りそう知性」は、現代におこる様々な出来事の「命がけ」の場にわたしたちはどのように関わることができるのかを問いかけている言葉として今の私には響いている。

PROFILEプロフィール

  • 藤元 雅文 准教授

    【専門分野】
    真宗学

    【研究領域・テーマ】
    親鸞の生涯と思想/教行信証/愚禿鈔/法然の思想