「聞く」ということ

一国のリーダーである方が、「聞く」ことの大切さを口にされ、改めてそのことの持つ意味について思いをいたした。

ここしばらく、「“決断力”、“発信力”、“統率力”こそ大切!」といったリーダーシップ論がずいぶん長く大手を振っていたように思っていたので、それと大きく異なる姿は新鮮に感じられた。

考えてみれば、いかに「決断力」や「発信力」に秀でていたとしても、その決断や発信の中身が相手の気持ちや状況をふまえたものでなければ、そもそもリーダーとしてふさわしいとはいえないだろう。そう考えると、より大切なのは、「伝える」力より、むしろその伝える内容を形づくる「聞く」力であるようにも思われる。

リーダーであろうとなかろうと、「聞く」こと=「受け止める」ことと「話す」こと=「伝える」ことによって他との間に循環的な関係が結ばれることは、ひとしく大切なことであろう。しかしこれを誠実に行うことはとてもむずかしい。
自分の言うことは無理にも聞いてもらいたいが、他人の言うことは聞きたくない。こんなとことん自己中心的な性格なので、私の場合どうにもうまくいかない。聞かせることばかりに熱心で、相手の話は聞いたふり。わかっちゃいるけどやめられない…。

しかし、やはり私の場合、そんな自分の姿を相手からとことん思い知らされることがなければ、「聞く」ことの大切さに気づくはずもない。「聞きたくない」の思いを破って聞こえる声の大切さ、面白さを感じ続けるしかないのかな、と思う。
彼是(よみ)すれば 我は非(あしみ)す。我是すれば彼は非す。我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。共に是(こ)れ 凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あ)しき理(ことわり)、詎(たれ)れか能(よ)く定むべけん。相(あい)共に賢(かしこ)く愚かなること、鐶(みみかね)の端(はし)無きが如(ごと)し。
人々から「豊聡耳(とよとみみ)」と称された聖徳太子が「十七条憲法」に遺(のこ)した言葉である。
自分自身を含めた人間の自己中心性に対する深い洞察と、そうしたまなざしに裏づけられた、相手を思うやさしさが伝わってくる。

上とか下とか右とか左とかいろいろあるけれど、お互いにどうしようもなく自己中心的でありつつ、同時に支え合っている者どうしとして、より良い関係を築いていきたい、と思う。

——などと記しつつ、我が愛するアパートの階上より聞こえてくる物音に、いささか心穏やかならざる日々を過ごしているこの頃である。

PROFILEプロフィール

  • 東舘 紹見 教授

    【専門分野】
    日本仏教史(古代/中世)

    【研究領域・テーマ】
    日本仏教史(古代・中世)/「国風文化」/社会と仏教/浄土教史/講会