二つの真実—多様性と優劣をめぐって

現代は多様性の時代、「みんな違ってみんないい」とよく言われる。たしかにその通りだ。あなたと私は違っていいし、実際に違っている。私はコーヒーが好きだが、あなたは紅茶が好きだ。あなたは青が、私は茶色が好きだ。私とあなたでは背の高さも、顔の造りも、声も違う。何もかも違う。あなたはあなた、私は私でいいのだ。そこに「優劣」など存在しない。このことはたしかにひとつの真実だ。

だが、ここからさらに踏み込んで次のように言うとしたらどうだろうか。「優劣」など本来存在しないにもかかわらず、その言葉を用い続けるならば、ありもしない序列を持ち込んで人を傷つけてしまう。だから「優劣」という言葉、それを感じさせる表現はもう一切使わないようにしましょう、と。

そうなると、たとえば大リーグで活躍する大谷翔平の姿をすばらしいと言うことはできなくなる。なぜなら、この評価には彼が他の人“より優れている”という視点が入っているからだ。その視点がなければ、わざわざ彼を報じるニュースが生まれるはずはない。


同じことをこう言ってもよい。「優劣」が禁じられるとしたら、たとえば「舌・目・耳が肥える」とか「上達する」とか言うこともできなくなる。普通、私たちは何かに深く習熟していくと、その分野に関して“より優れた”能力が養われると思う。この習熟には努力だけではなく、持って生まれた才能も関わる。それゆえ、「優劣」という言葉は私たちの経験の豊かさ、奥深さ、そして残酷さをも示している。この言葉が使えなくなったら、私たちは真綿で優しく包まれる代わりに、何か大切なものから目を逸らすことになる。このこともまた真実だ。


「みんな違っていい」ということと、私たちから切り離すことのできない優劣—この二つはどちらも真実だ。どちらもあるということを、どうやって言うか。私にとって哲学が面白くかつ難しいのは、こういう問題を真正面から考えることができるからなのだろう。
 

PROFILEプロフィール

  • 脇坂 真弥 教授

    【専門分野】
    宗教哲学/倫理学

    【研究領域・テーマ】
    宗教哲学/倫理学/カント/シモーヌ・ヴェイユ