観客と観衆による「はなやぎ」

この夏オリンピックが、フランスのパリで開催された。パラリンピックも、8月末に熱戦がはじまった。連日の選手たちの熱戦に魅入られ、寝不足の日々を過ごした/している人も少なくないだろう。私はスポーツにはとんと疎いが、それでもオリンピックの開催中は、なんとなく高揚した気分になる。ルールも知らない競技の速報やその結果が気になったり、ついつい中継に見入ったりすることもある。

やはり観客のいるオリンピックは、とてもよいものだと思う。3年前の東京オリンピックが、新型コロナ感染症による自粛のなか、無観客で開催されたことが記憶に新しいせいだろうか、余計にそう感じる。実際のところ、テレビやオンラインでの観戦であれば、無観客であってもそう変わらないのかもしれない。しかし有観客の試合のほうが、会場の熱気や臨場感がより感じられるのだから不思議だ。

今年はオリンピック、パラリンピックだけでなく、京都の祇園祭をはじめ全国各地の都市祭礼もほぼコロナ禍以前の形で実施された。宗教学者・柳川啓一は、祭礼を宗教学的に考察するなかで、多数の「見物人」が押しかけることによって祭を「行う者」と「みる者」に分化したが、見物人、観衆なしには都市の祭ははなやいだものにはならなかった、と述べている(柳川啓一『祭と儀礼の宗教学』筑摩書房、1987年)。

オリンピックやパラリンピックもいわずもがなスポーツの「祭典」である。やはり観客は欠かせない存在といえよう。それは選手にとって観客の声援となるという意味だけでなく、観客の存在によって生みだされる「はなやぎ」があるからだ。自身の研究と関係のある祭礼はともあれ、スポーツ観戦はすっかりご無沙汰している。久しぶりに出かけてみようか。


PROFILEプロフィール

  • 後藤 晴子 准教授

    【専門分野】
    社会学/文化人類学/民俗学/博物館学芸員資格(民俗)/専門社会調査士

    【研究領域・テーマ】
    エイジング/ライフヒストリー/生活の中の宗教/日本研究