前世の意味—人生の理不尽さとの仏教的向き合い方—

仏教では、現在の生は前世の行い(業)の報いとしてあるとされている。じっさい仏典においては、人々が現世で受ける善悪の果報の、前世における因縁についてブッダが物語っている場面が少なからず見受けられる。このような教えは現代人には単なる迷信と思わることであろう。しかし本当にそうだろうか。

私たちは様々な仕方で条件付けられてこの世に生を受けている。例えば自分が生まれる時代状況や家庭環境、もって生まれる身体的・心理的な特徴などのうちに、あらかじめ自分で選択できるものは何一つない。さらに言えば、生まれてくること自体が自分の意志によるものではない。つまり私たちは、長所も短所も含んだ自分の存在を授かる仕方で生まれてくる。「私」は私の人生の主人公でありながら、その人生の作者ではないから、自分が選んだわけではないものも自分が引き受けざるを得ない。その理不尽なものが人生である。そして「現世の生は前世の報い」という理解には、こうした理不尽さに向き合う態度についての一つの教えが含まれているように思われる。

「前世の報い」と言われたところで、今の自分にとってはもはやどうしようもないと思われるに違いない。しかしそのような「運命」を潔く受け入れる姿勢には、「諦念」とも言うべき諦めが認められないだろうか。おそらく誰もが一度は人のことを「羨ましい」と思ったり、「なぜ自分だけがこのような目にあうのか」と考えたことがあるだろう。だがそう思っているだけでは自分の人生を前に進めることはできない。思い通りにいかないことへの恨みで自分の人生から目を逸らしてばかりいたら、その人生の世話は誰がするのだろう。現世の生を前世の業の報いと受け止める姿勢には、自分の人生を与えられたものとして受け止める謙虚さや忍耐強さに加え、現在の生き方が来世の有り様を決めるのだから、眼前の人生を懸命に正しく生きていこうとする力強さが見出されはしないだろうか。

私たちは自分の人生というドラマの「作者」ではないが、人生のまごうことなき「主人公」であることを仏教は教えているのである。

PROFILEプロフィール

  • 新田 智通 教授

    【専門分野】
    仏教学(インド)

    【研究領域・テーマ】
    初期・部派仏教/「伝統学派」(Traditionalist School)についての研究

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