文学部真宗学科を2020年度に卒業された藤井遥斗さんに、在学中に学んだこと等について語っていただきました。
※このページに掲載されている内容は、取材当時(2025年5月)のものです。

大学時代、私の学びは仏教、特に浄土真宗の教えと深く結びついていました。念仏をとおして感じた「いのちのつながり」や「今を生きる」ことの意味は、自分にとって大きな気づきでした。しかし、日々の生活の忙しさや現実的な課題の中では、そうした思いをつい忘れてしまうこともありました。

社会に出ると、どうしても目に見える成果や他者からの評価に意識が向いてしまいます。かつての私も、数字や肩書きといった“分かりやすい価値”を追いかけていたように思います。けれども、本当に大切なのは、自分の内面がどれだけ満たされているか、自分らしく生きていられるか、という“目に見えない心の豊かさ”だということに、徐々に気づかされていきました。

現在、私は高校で国語と宗教を教えています。教壇に立つ中で感じるのは、生徒たちもまた評価や競争に晒されながら、不安や葛藤を抱えているということです。そのような中で、仏教の視点を通して「他者と比べずに自分を見つめること」や「人とのつながりの中で生きていることの意味」を伝える意義の大きさを感じています。

私自身、理想と現実のはざまで悩むこともありますが、だからこそ、仏教の学びが生き方の支えになっているのだと実感しています。後輩の皆さんにも、すぐに結果が出ないことや評価されないことに焦るのではなく、自分自身の内面と丁寧に向き合いながら、生きる豊かさを育んでいってほしい——そんな思いを込めて、今も日々、生徒たちと向き合っています。

揺れる感情の中で得た「そのままの自分に気づく」ことの意味

大学時代、私は仏教、特に浄土真宗の学びを通じて「念仏」という教えに出遇いました。阿弥陀仏のはたらきを信じ、「南無阿弥陀仏」と称えることの大切さを学びましたが、当時の私はその意味を本当の意味で理解していたとは言えません。

しかし今、少しずつではありますが、念仏の教えにふれるなかで、成果や評価にとらわれず「このままの自分でいいのだ」と思える瞬間があるようになりました。それは、他人と比べず、自分を受け入れる心の余白のようなものであり、忙しい日々の中でふと立ち止まるきっかけにもなっています。

とはいえ、その感覚はいつも持ち続けられるものではありません。授業や部活動、生徒指導、友人との関係——目まぐるしく流れる日常の中で、知らず知らずのうちに不安や焦りに心が支配され、気づけば念仏の教えや仏のまなざしが遠ざかってしまっているように感じることもあります。「大切なことだ」と頭では分かっていても、現実の場面ではそれを忘れてしまう理想と現実の間で、揺れ動く自分が確かに存在しています。

「教えを知っていても、それを生きられない自分」がいます。そんな自分を責めてしまうこともありましたが、それもまた「私」なのだと受け入れられるようになったとき、仏教の学びは「正しくあろうとすること」ではなく、「そのままの自分に気づくこと」に意味があるのかもしれない——そんな思いが芽生えはじめたのです。

大学の先生との会話がくれた、自分自身を支える軸

学生時代の私は、どこかで「社会に出るには、目に見える結果が大切だ」と信じていました。成績、資格、課外活動の実績といったような数字や成果として見えるものに価値があり、それらを積み重ねることで将来の安定が手に入ると思い込んでいました。特に文系の学問に対しては、「この学問が何の役に立つのだろうか?」という疑問を持っていた時期もありました。

そんなある日、大学の先生との何気ない雑談の中で、「文系の学問って、社会の中でどう役に立つんでしょうね」と軽く問いかけたことがあります。すると先生は少し考えたあと、こう答えてくれました。

「理系が社会を“便利”にするなら、文系は社会を“人間らしく”するんだと思うよ。」

その言葉に、私はハッとさせられました。宗教や哲学、文学といった文系の学問は、直接的な利益や目に見える成果には結びつかないかもしれない。でもそれらは、人間が「どう生きるのか」「何を大切にして生きるのか」を問い続けるための、大切な土台なのではないかと気づかされたのです。

この気づきは、今でも私の中で大きな支えになっています。もちろん、成果や評価も時には必要です。しかし、それはあくまで表面的なものであり、最も大切なのは「自分が何を信じ、どう生きたいのか」という「内なる軸」なのだと、今では思えるようになりました。

大切なのは「答え」よりも「応え」。問い続けることの大切さ

 現在、私は高校の教員として国語と宗教の授業を担当しています。教員として5年目を迎え、これまでに2年生・3年生の担任も経験してきました。とりわけ3年生を受け持つと、生徒一人ひとりの進路に深く関わることになります。進学、就職、専門学校等それぞれの選択肢に迷いや不安を抱える生徒たちと面談を重ねるなかで、私自身も「教員として何ができるのか」「どのように寄りそえるのか」を日々問い続けています。

また、実家がお寺ということもあり、宗教行事にも関わっています。家庭と仕事、信仰と現実といったそのすべてに一貫した答えがあるわけではありません。仏教(浄土真宗)の教えを伝える立場にありながら、日常ではイライラもするし、妥協もする。それでもなお、「問い続けること」自体に意味があるのだと、今は感じています。

宗教の授業では、生徒たちに「答えを出すことが目的ではなく、問いを持ち続ける姿勢が大切」だと伝えています。人はつい「正解」を求めたくなりますが、その「正解」にとどまってしまうことで、かえって思考が止まってしまうこともあるからです。私自身もかつて、「これが正しい」と信じた答えを、誰かに押しつけてしまったことがありました。

しかし、その「答え」は、自分が本当に悩み抜いて導いたものではなく、誰かが用意した正解にただ乗っかっていただけだったと気づいたのです。だからこそ今は、「答え」よりも「応え」を大切にしたいと考えています。生徒たちにも、模範解答を探すのではなく、自分が何を感じ、どのようにその問いに向き合い、どう応えようとしたかを見つけてほしいと思っています。

悩み、葛藤から得た自分自身の「土台」

大学時代、親鸞聖人の言葉にふれるなかで、私は不思議な感覚を覚えるようになりました。はるか昔に語られた言葉であるにもかかわらず、それがまるで今の私たちの心を見透かしているように感じたのです。人間の根本にある迷いや欲、弱さのそれらを突きつけられるような言葉の力が、確かにそこにはありました。

一方で、親鸞聖人の言葉はとても抽象的で、直接的な答えを示してくれる訳ではありません。それが学生だった私には、もどかしく感じられることもありました。でも、今になってわかる気がします。親鸞聖人自身もまた、悩み、葛藤しながら生きていたのではないでしょうか。だからこそ、「答えをはっきり言わない」のではなく、「はっきりとは言い切れない」ものに向き合っていたり、これもまた、答えを提示することの危うさを親鸞聖人自身が分かっていたのかもしれないと考えています。私たちは一人ひとりがそれぞれの立場で悩み、迷いながら生きています。その苦しみや思いは、100%他者が理解しきれるものではありません。だからこそ、親鸞聖人は言葉に慎重であり、「具体的に言えない」ところもあったのだと考えています。

その視点は、今の私の教育現場での姿勢にもつながっています。生徒が見ている世界は、年齢や置かれた環境、経験によってまったく異なります。だからこそ、目の前の生徒の言葉を、こちらの価値観や基準で判断せずに、その背景や“見えている景色”ごと受けとめようとする姿勢が大切だと感じています。
大学時代、親鸞聖人の言葉に悩み、もやもやしながら向き合ったあの時間こそが、今、目の前の一人ひとりと誠実に向き合おうとする私自身の土台を育んでくれたのだと思います。

PROFILEプロフィール

  • 藤井 遥斗(ふじい はると)

    文学部真宗学科 2020年度卒業