文学部真宗学科を2014年度に卒業、2019年度に文学研究科(現 人文学研究科)真宗学専攻博士後期課程を修了された村上 無量さんに、在学中に学んだこと等について語っていただきました。
※このページに掲載されている内容は、取材当時(2026年6月)のものです。

現在、私は真宗大谷派宗務所しゅうむしょ(東本願寺)出版部の聖教編纂室しょうぎょうへんさんしつに勤務しており、主に『真宗聖典(第二版)』や『宗祖親鸞聖人著作集』等のテキストを刊行するなど、真宗の学びのりどころとなるお聖教しょうぎょうと向き合う仕事をしています。
それまでは大谷大学で12年間過ごしました。入学してから大学院修了までの9年間は学生として真宗学を学び、その後の3年間は真宗学科の助教として勤務しました。そこには本当に多くの人や言葉との出会いがあり、様々なことを経験し学びました。それら一つ一つが今の私にとってかけがえのないものです。

もともと真宗や仏教に全く関心のなかった私が今そう思えるのは、ひとえに「学び方」を大事にする真宗学に出会えたからだと思います。大学時代の学びが将来の仕事に直結するのか、未来の自分にどう役立つのか、これは誰にもわかりません。それを不安に感じている人もいるでしょう。しかし、何を学ぶにしても「学び方」は自分の人生において必ず生きてきます。だからこそ、是非とも皆さん一人ひとりが大事だと思える「学び方」を見つけてほしいと思っています。

「学び方を学ぶ」という視点

助教時代の写真
助教時代の写真

私が「学び方」を意識するようになったのは、金子大榮先生が『真宗学序説』の中で示された「親鸞聖人の学び方を学ぶのが真宗学である」という言葉に触れたことがきっかけでした。これは真宗学科の学生であれば誰もが必ず耳にするほど、現在では真宗学という学問の基本的なあり方として浸透しています。しかし、この言葉に初めて触れたとき「なぜそんな回りくどい言い方をするのか」と、私は大きな違和感を覚えました。

それまで自分の学び方を意識したことはなく、むしろ意識すらしないほど当たり前のこととして「教えられたことを覚える」ことが学びだという感覚が私の中に根付いていたのだと思います。真宗学もその延長上にあると捉えてしまい、授業で先生が話す内容や『真宗聖典』に書かれている内容を覚えればいいと思っていた私にとって「学び方を学ぶ」という視点は、私自身のこれまでの学びの姿勢そのものを問いただしてくるかのような、そんな言葉に思えました。

「学ぶ」ということ

そこから少しずつ「学ぶ」ということの中身を考えるようになったのですが、私がたどり着いた答えは意外と単純なものでした。それは〈問う〉・〈考える〉・〈受け止める〉、この繰り返しこそ「学ぶ」ということの中身ではないだろうか、というものです。

この学びの在り方は、決して特別なことをするわけではありません。私は現在、二児の父でもありますが、今年3歳になる長男は、気になることは「なんでなの?」と問い、「こうだからじゃないかな」と自ら考え、「そっか!」と何かを受け止める、そういった姿がしばしば見られます。このように、人間であれば誰もが日常的に行っていることで、私たちが人間として生きるということと非常に密接に関わっているのが、この「学び方」ではないでしょうか。ここに人間としての学びの本質があると、当時は漠然と感じていました。

私にとっての「真宗学」

職場での写真
職場での写真

そうであれば「学び方を学ぶ」ということは「生き方を学ぶ」ということと重なるのではないかと考えるようになりました。つまり「親鸞聖人の学び方を学ぶのが真宗学である」ということは、親鸞聖人がその生涯において何を問い、何を考え、何を受け止めたのか、その生き方を学ぶことを通して自分自身の在り方に眼が開かれていく、それが真宗学ではないかと。
そういう「学び方」を意識するようになって、見える世界が少し変わった気がします。特に、様々な物事の背景に目が向くようになりました。自分自身が何に支えられて生きているのか、また何を願われている存在であるのかということへの気づきは、私の生きるかてとなっています。
「学び方」が変わると自ずと「生き方」もまた変わってきます。これは真宗学だけではなく、全ての学問領域で共通することです。皆さんも一度、自らの「学び方」を見つめ直してみるとよいのではないでしょうか。

PROFILEプロフィール

  • 村上 無量(むらかみ むりょう)

    文学部真宗学科 2014年度卒業 2019年度に文学研究科(現 人文学研究科)真宗学専攻博士後期課程を修了

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