文学部仏教学科を2013年度卒業、大学院文学研究科(現 人文学研究科)仏教学専攻 修士課程を2015年度修了された三村覺さんに、在学中に学んだこと等について語っていただきました。
※このページに掲載されている内容は、取材当時(2023年11月)のものです。

京都にある大谷中学高等学校で宗教・国語科を担当し、現在高校3年生の担任をしています。大谷大学大学院修士課程を修了後、本校の契約講師3年、常勤講師1年を経て現在に至ります。本校は、中学1年生から高校3年生が同じ校舎で過ごす中高一貫校です。教室等で元気にはしゃぎまわる無邪気な中学生と、精神的にも少しずつ大人になろうとしている高校生が集い学んでいます。毎日、何かしらのイレギュラーが飛び出し、目まぐるしい毎日を過ごしています。

そうした日々の中で、教師という立場を分かってはいても、やはり生徒に対して苛立ちを覚えてしまうことがあり、その原因をどうしても相手に求めようとしてしまいます。そうしたときに、「問題を起こさせている原因がこちらにあるのではないか」と一歩立ち止まり、内省する姿勢の大切さに気付けたのは、大谷大学で仏教を学んだからであると思います。

仏教を学ぶことは、「役に立つか立たないか」という尺度で測れるものではないように感じます。むしろ、学べば学ぶほど自己が問われるような学びであるように思います。大谷大学で仏教を学ぶことで、そのような眼差しを自己の内側に持つことの大切さを感じてください。

生徒指導を通じて実感した、自己を問うことの大切さ

高校3年生の担任として大学受験に向けて担当クラスの生徒42名の進路を考えながら、志望理由書の添削や面接練習の指導等に追われており、目まぐるしい毎日を過ごしています。それに加え、ほぼ毎日予定外のことが起こります。その中でも、最も予測できず正解が分からないのが生徒指導です。学校では、こちらが想像もつかないようなことが起こります。そうした指導も含めて、3年間の学校生活を通して、生徒たちが精神的に大きく成長していってくれることが、卒業式当日を迎える私たちの喜びであり、教師という職業の魅力でもあります。

そうした生徒たちとの日々の中では、私も一人の人間ですので、教師であるという立場を分かってはいても、生徒に対して苛立ちを覚えてしまうことがあります。様々な業務に追われ、心に余裕がないときはなおさらです。生活態度や素行、こちら側の指導を受け入れない原因をどうしても相手に求めようとしてしまいます。何度も同じことを繰り返す生徒には「いつも言ってるよね」「何回も同じこと言われないように」と、厳しく指導する場面もあります。もちろん、学校ですので校則やルールに対する意識を高めることは必要ですが、そうした指導を通して、自身の正しさを信じて疑わない姿勢が自分自身に定着してしまうことが、私にとっては恐ろしくもあります。

十人十色という言葉がありますが、時間や場所、一緒にいる相手によって大きく変わる一人十色とも言える人生を私たちは送っています。ですので、簡単に「はい、そうですか」と言われた通りに変わることはできません。様々な責任を本人に押し付けてしまい、自身の指導を肯定することは非常に簡単で分かりやすく、何より楽ですが、それでは血の通った生徒指導は成り立たないように感じています。だからこそ、自己内省とも言える視座をもつことが大切であるように思います。本人に全ての責任を押し付けるのではなく「こちら側にも嫌悪感や反抗心を抱くきっかけとなった原因があったのではないか」や「生徒も人間であるし、簡単に飲み込めることもあれば、そうではないこともある。それにもかかわらず、思い通りになると思い込んでいたのがそもそもの誤りではないか」と、自己を正しく否定し、自己を問うていくことの大切さは、仏教から学んだ視座ではないかと最近になってようやく感じています。

仏教は、私たちの尺度を超えた学び

仏教を勉強して何かの役に立つのかと言われると、はなはだ難しいことですし、私が思うに「役に立つか立たないか」という尺度で測れることではないように感じます。何事にもそのスピードが求められる風潮が強い現代社会において、合理的で効率的な物事が尊ばれる傾向があります。高校生と話をしていても、大学へ進学する理由として「この資格を取れば就職に有利だから」や「社会で役に立つ〈人材〉になれるから」という回答をよく聞きます。そのたびに私はどこか切ない気持ちがしています。もちろん、生活していくために就職してお金を稼ぐことは必要ですが、それが「生きる」ためであるということを見失い、「私が私として生まれた以上、どう生きていくべきなのか。そもそも答えはあるのか」と問うことがなければ、空虚な人生を歩むことになるような気がします。

では、「仏教を学べばそれが分かるようになるのか」と問われると、残念ながら今の私はその答えを持ち合わせていません。ですが、仏教に出あわなければ、「私が私として生まれたことの意味」を私自身が考えることはなかったように思います。仏教を勉強することの意味はよく分からないというのが私の答えですが、少なくとも「仏教に自分自身を学ぶ機会が多い」ということを、ひしひしと感じています。

私自身、まだまだ「学ばなければならないこと」、「学ぶべきこと」、「学びたいこと」はたくさんありますし、あまりえらそうなことを言えたものではありませんが、知識や知恵がつくほど自己の肥大化が加速していくのではないかと感じています。まだまだ純粋な中高生と接していると、そのことを強く感じるときがあります。そうした自己の肥大化に歯止めをかけるためにも、自身を信じて疑わないその心こそが妄執ではないかと「自己の内側に、自己を正しく否定する眼差しを持つ」ということが大切なのだと強く感じます。それがなければ、ただただ傷つけ合うだけの悲しい人間関係を構築してしまうことになるのではないでしょうか。だからこそ、「分かったつもり」になるのではなく、「分からない」ということを大切にしてください。それが全ての始まりになります。

PROFILEプロフィール

  • 三村 覺(みむら さとる)

    文学部仏教学科 2013年度卒業

    文学部仏教学科 2013年度卒業
    大学院文学研究科(現 人文学研究科)仏教学専攻 修士課程 2015年度修了