仏教学科
学生インタビュー
SEARCH

文学部仏教学科を2014年度に卒業(2016年度に文学研究科(現 人文学研究科) 仏教学専攻修士課程を修了)された山本翔さんに、在学中に学んだこと等について語っていただきました。
※このページに掲載されている内容は、取材当時(2026年5月)のものです。
現在は、長崎県の離島にある真宗大谷派寺院で住職を務めています。大学院修士課程を修了後は、当時の真宗大谷派長崎教区で教区雇員として4年間勤務しました。その後、現在のお寺で住職代務者を3年間務め、2024年に正式に住職となりました。
これまでの歩みは、決して順風満帆だったわけではありません。仕事や人間関係がうまくいかず、自分の人生の目的や意義を見失い、苦しい時期を過ごしたこともありました。しかし、そのような中で支えとなったのが、大谷大学で学んだ「縁」という考え方でした。自分の人生には特定の目的や意味が最初から決まっているわけではなく、さまざまな縁の中で生かされているのだと気づいたことで肩の力が抜け、少しずつ前を向いて歩めるようになったと感じています。
私は学部生時代、学生会中央執行委員会に所属していました。さまざまな事情があり、第1学年の夏休み前には事実上の中央執行委員長となり、その後、第2学年と第4学年の時には正式に委員長を務めました。
委員長時代には、会計や規則、組織体制の大幅な見直しを行ったほか、新しい企画の立ち上げにも積極的に取り組みました。また、慶聞館の建築にあたっては、学生の意見を取りまとめ、設計へ反映してもらうための活動にも関わりました。さまざまな分野で活動を続ける中で、当時の私は「自分がいたからこそ、ここまで学生会活動を盛り上げることができた」という強い自負を持っていたように思います。
しかし、大学院生の時に「先輩はいろいろなことをしてこられましたが、今の自分は委員長として何をすればいいのかわからないんです」と、後輩の委員長から相談を受けたことがありました。
その時、私は「目的を見つければ、自ずと何をすべきかは見えてくるよ」と答えましたが、続けて「では、その目的はどうやったら見つけられるんですか」と聞かれ、言葉に詰まってしまいました。自分自身は“目的を持って行動してきた”と思っていたものの、その目的をどのように見つけてきたのかを、うまく説明することができなかったのです。
大学院の修士課程では、かつてインド北西部で活動していた説一切有部という学派が説いた「六因四縁五果」という因果関係の思想について研究していました。
例えば、善い行いをすれば自分にとって良い結果が、悪い行いをすれば苦しみとして返ってくるという考え方は「因果応報」として一般にも知られています。こうした思想は仏道修行とも深く関わっているため、四縁の研究では「因縁」を中心に扱うことが多い分野でした。
しかし、私はその「因縁」ではなく「増上縁」を主軸に研究していました。「増上」とは、サンスクリット語の「adhipati」を漢訳した言葉で「支配的な」「強く作用する」といった意味があります。もともとは、ある結果に対して強い影響を与える条件を指していましたが、時代が進むにつれて「所縁縁」「等無間縁」「因縁」以外の、あらゆる作用をまとめて含む概念として意味が広がっていきました。
つまり、ある結果に対して「その結果以外の物事全て」を増上縁といいます。私は、この「その他の縁」とも言える増上縁に強く惹かれ、先行研究が少なかったこともあって、このテーマを中心に研究を進めていました。
修士論文を書くにあたり、指導教員からは繰り返し「この研究をすることが、自分の人生にとってどのような意味を持つのかを考えなさい」と問いかけられていました。しかし、その問いに対する明確な答えを見つけることができないまま、私は修士論文を提出し、大学院修士課程を修了しました。
大学院修士課程を修了した後、叔父の紹介もあって私は真宗大谷派長崎教区(当時)の教区雇員となりました。長崎教区の事務所である長崎教務所には長崎教会というお寺が併設されており、私の仕事はその長崎教会の法務(お寺の仕事)がメインでした。しかし、私の実家は寺でもなければ家にお内仏もないような家でしたので、業務の全てがわからないことばかりでした。それだけならばまだ覚えて慣れていけばいいのですが、一番悩まされたのが価値観の違いでした。
例えば、朝にお仏飯をお供えしても米粒一つ減らないし、お供えしようがしなかろうがご本尊そのものは何も変わらない、それなのにそれをやることの意味は何かと考えてしまいました。
それ以外にも様々な事柄に対して価値観の違いを感じてしまうことがあり「変わらなければいけないのに変われない」「こんな自分なんかよりも他にもっと適任の人がたくさんいるのではないか」という自己嫌悪に陥りました。その時の私は、学生会の中央執行委員長だった時のように「自分がいたからこそここまで盛り上げることができたんだ」という「存在意義」、何かを成し遂げるために必要な「目的」を渇望しながらもそれを得られないことに苦しみ、ストレスからか体調を崩して寝込んでしまいました。
寝込んでいる時、時間だけはあったので『真宗聖典』という真宗大谷派にとって重要なお経や宗祖などが執筆した解説書や手紙などを収めている本を開いていました。その中で「無義為義」という言葉に出会いました。この言葉は「他力本願」という浄土真宗の大切な教えの中身を説いていたものでした。
それまでの自分が変わらなければともがく姿は、私が研究していた因果論にあてはめると「因縁」をどうにかしようとする姿でした。それに対して「他力本願」とはそんな私の力なんか到底及ばない「ずっと大きな働きの中に私はいる」という事実です。それはまさしく私が大学院で研究していた「増上縁」でした。この世界で最も「支配的な」縁の中で私は生かされています。「変わる」ということも「目的を見つける」ということも、あるいはそのために「頑張る」ことすらも全て「増上縁」次第、だからこそ私はその「増上縁」に身を任せてただ今を生きていればそれでいい(そうやって生きるより他ない)。その結果、たとえ変わらなかったり、目的が見つからなかったりしても、それはそういう縁だったというだけです。あるいはまた、あらゆる存在は意義があって存在するのではなく、縁によって存在します。だから私は何かのために生きている訳でもないし、成し遂げなければならない何かがある訳でもない。それが私の中の「増上縁」=「他力本願」の受け止めだと気づくことができました。
そして、それに気づいた時、肩の荷が降り、その時の等身大の自分自身を認められるようになったように思います。同時に、自分だけではなく、他の人も、あるいはあらゆる事物全てが「縁に関連する存在」なのだということに気づくということでもあります。そうなった時に初めて、周りの存在も許容できるようになれたかなと思います。
だからこそ、これから進路を考える学生の皆さんには、やりたいことがあるなら積極的に挑戦してほしいと思いますし、まだやりたいことが見つかっていない人も、アルバイトやボランティア、部活動など、まずは何かに飛び込んでみてほしいと思います。たとえ最初は強い興味がなかったとしても、その経験が新たな縁となり、自分自身の道につながっていくこともあります。もちろん、それも含めてすべては縁によるものだと思っていますので、あまり思い詰めすぎず「なるようになる」という気持ちも大切にしてほしいです。


山本 翔(やまもと かける)
文学部仏教学科 2014年度卒業 文学研究科(現 人文学研究科)仏教学専攻修士課程 2016年度修了