2018年4月から3学部体制となる大谷大学。その記念シンポジウムの2回目が6月24日、「Be Real—学ぶべきこと、意味—」をテーマに大谷大学講堂で行われました。大谷大学学長の木越康、哲学者の鷲田清一さんの基調講演の後、朝日新聞出版「大学ランキング」元編集長・友澤和子をコーディネーターに、この3人で宗教・哲学・思想することの意味を語り合いました。当日の模様を紙上採録でお届けします。

※本ページの情報はシンポジウム開催当時(2017年度)のものです。

基調講演①:社会的要請や心の要求に応えられる 哲学・仏教・文学など文系の学び

人文社会科学系の学問が果たす役割とは

 今回のシンポジウムのテーマを「Be Real —学ぶべきこと、意味—」とした一つの動機は、2015年6月に文部科学省から全国の国立大学に出された通知内容に関係します。人文社会科学系の学部、大学院について、「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努力せよ」という内容でした。我々は文系の私立大学ですが、本学でいえば歴史、文学、哲学、仏教は社会からあまり必要とされない学問領域であるとレッテルを貼られたことになります。

 その後、新聞の論説や国立大学総長らがこの通知に反論。文部科学省は「人文社会科学系を軽視するものではない」と修正するコメントも出しています。そこで今回は、人文社会科学系の学問がどのような役割を果たし得るのかを皆さんと考えたいと思ってこのテーマをたてました。

学問を修める意味を教えてくれた2人

 人文社会科学系の学問を学ぶ意味を、私に教えてくれた2人を紹介します。一人は12年に、iPS細胞の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞された山中伸弥先生です。人文科学の社会的必要性を教えてくださいました。

 山中先生は受賞会見の時に「この技術には倫理がまだ追いついていない」と言われました。ES細胞は受精卵を使うため倫理的な問題があるといわれますが、iPS細胞はいかなる生命も犠牲にしません。そのため「ノーベル倫理学賞」にも値すると称賛されました。しかし、iPS細胞の研究は、病気の原因解明や治療薬の開発に役立つ可能性がある一方で、人間の生命を作り出すことにもつながります。先生は科学技術の発達に任せて倫理的な課題を放置する危険性を指摘されたのです。人間の「適正な命のあり方」とは何か。自然科学や医学だけでなく、我々の人文科学系の分野が一緒になって議論していかなければいけないと教えてくださいました。

 もう一人は、社会的要請とは異なる内からの要求に応じて学ぶ本学の学生です。哲学を専攻した理由を聞くと「生きることが苦しいと感じる。その問題を考えたいから」と言われました。息苦しさの原因を思索する中で「自分が女性であること」に行き着いたと言います。今、ジェンダーに関心があるようです。この学生は社会的な役割や要請があるから学んでいるのではなく、自分の心の中から出てくる要求に従って哲学しているのです。

 その学生の姿に、私は本学の初代学長で哲学者の清沢満之の言葉「人心の至奥より出ずる至盛の要求の為に宗教あるなり」を思い出しました。生きることの真実を探究したいという自らの要求のために宗教の学びがある、との意味です。哲学あるいは仏教を学ぶ本当の意味を、この女子学生が教えてくれました。

基調講演②:学ぶ意味は学んだ後にしか分からない 大事なことを見極める勘を身につけて

教育現場で起きている「転倒」

 現在の教育現場では、当たり前のことが反対の状態になる「転倒」が案外多く起きています。覚えた知識がどのような場面で使えるかを教えずに孤立した設問をしたり、学生の知識をただ試すためにだけ質問したりしています。

 私がしばらく滞在したドイツの教育は、日本とは随分違いました。例えば算数なら計算するだけでなく文章で記述する問いもあり、知識の使い方が分かるように授業が行われます。フランスの行政官を養成する国立行政学院では、行政学とともに、例えば幸福について考える哲学の論文を書く必要があると聞きます。幸福とは何かを深く考えたことのない人に行政を任せるのは危険、という考えからです。日本の教育は当たり前のことをやっていないと思いました。

 今の学生さんは「これを勉強したら何になるのですか」「何のために勉強するのですか」と当然のように聞いてきます。これは意味のない問いです。学びの意味は、学んだ後にしか絶対に分かりません。「自分には知らないことがいっぱいある」と気付くために学びはあるのですから。

 では学校で学ぶ時に、一番大事なのは何か。学ぶ意味を求めるのではなく「これは大事だぞ」という勘を身につけることです。「この人の話のここが重要」と察知する能力を養うことが、生きていく力になります。

「Be Real」私が考える三つの意味

 大谷大学の教育を示す「Be Real 寄りそう知性」は、いい表現だと思います。「Real」は日本語で「現実的」と訳しますが、どのような意味があるか私の解釈をお話しさせていただきます。

 一つ目の意味は、世の中に感じる小さな違和感を大切にし、実際はどうなのか自ら判断できるように鍛えることです。政治、経済、教育のあり方などが何かおかしい、危ないと感じる時に、例えば歴史の流れや地域の課題など様々な視点を持つことで、現実を立体的、多角的に見ることができます。

 二つ目は「知的な肺活量」を大きくすることです。「知的な肺活量」とは、複雑性の増大に耐えられる思考力のこと。今のグローバル化した世界状況は複雑で、見通しが利かず、自分たちの力でコントロールできません。だからこそ、事態が立体的に見えてくるまで考え抜く思考力が必要です。

 三つ目は、問題が起きている現場に常に立ち会おうとする姿勢で知性を使うこと。東日本大震災が起きた時に、大阪市民を対象に放射能や原発問題についてシンポジウムを開いたことがあります。「皆さんにとって良い専門家とは?」と教員が問うと、ある受講者が「自分たちと一緒に考えてくれる人」と言われ感銘を受けました。起きている問題をどう考えればいいか、プロとしての方法を持ち、現場の人とともに考える。知性は人のために使うことが何より大切です。

ディスカッション:危機的な状況に直面するほど役に立つ宗教や哲学の学び

仏教や哲学が存在する意義

友澤:今、就職に有利な学部が注目されがちです。仏教や哲学など人文科学系の学びは、なぜ必要なのでしょうか。
 
木越:私の好きなブッダの言葉に、「頭髪が白くなったからとて〈長老〉なのではない。ただ年をとっただけならば、『むなしく老いぼれた人』と言われる」があります。ブッダは欲望や怒りに振り回されながら生き、命を終える人に対して「むなしい」と言っています。ですから、どうすればむさぼりや怒りを乗り越え、むなしくない人生を送ることができるのか、それを求めるのが仏教の基本だと思っています。
 
鷲田:哲学とは、我々が共有している当たり前の価値観を一度外して考え直すことです。例えば、役に立つ即戦力となる人材を、社会が大学に求める時に「役に立つとは、そもそもどういうことか」と一歩下がって考えるのが哲学です。とくに人文系の学問は、壮大なスケールの時間の中で物事を考え、判断することが大事です。古代の哲学や言語、かつての集落の調査など、実社会では無意味のように思えても、国家や国土が壊れるような危機的状況に陥って再建する際には参照でき、大変役に立ちます。社会に深刻な危機が起きても多様な方法で対応できるように、オルタナティブ(選択肢)をたくさん準備しておくことが大学の一番の使命だと思っています。

困っている人のそばで寄りそえる人を育てる

木越:私は仏教や親鸞を教育・研究していますが、その社会的影響を時折考えてしまいます。特に、精神文化的に何も成長しない私たち人類を見ると、なぜなんだろうと、いら立ちを覚えることもあります。先生はどうですか。
 
鷲田:哲学は無用の学問とも言われますが、一般の人と哲学の話をする「哲学カフェ」を仲間と数百回開いてきました。私のかつての学生が東日本大震災後に、東北で震災をテーマに哲学カフェを行っています。哲学者がファシリテーターを務めるのですが、人に用いられると学者はとてもうれしい。「この知識を応用したら役に立ちますよ」と上から物を言うのではなく、人に用いられることにもっと素直になるべきです。
 
木越:そういえば先日、新しい時代における寺院のあり方を考える研究会があり、過疎地区のお寺が共同体をどう支えるかを話し合いました。ある方が「何ができるか”doing”だけでなく、その場に存在してある”being”としての寺の役割も大きい」と言われ興味深かったです。困っている人のそばにいて一緒に悩み、共に考える人を育てることも大学の責任だと思いました。
 
鷲田:大事なことですね。個人でも悲しい時は何かをしてほしいというより、ただそばにいてほしいと思うことの方が多いですから。戦後は地域社会のつながりが希薄になっています。かつては子育てや介護など、命に関わることはコミュニティーで助け合ってきました。ところが高度成長期にこれらの命の世話は、国家や大企業レベルの社会システムが代行するように。十分に機能していないところは結局、家族が引き受けざるを得なくなり、お母さんが24時間子どもの世話に追われたりしています。月参りが行われることも少なく、僧侶が家庭の問題を知る機会がなくなってきています。もう一度、地域社会を安心できる場所にして、暮らしの中に宗教家が当たり前にいるようになればいいと思います。

意見を持ち発言できる人を社会に輩出する

友澤:大谷大学で学ぶ魅力をお聞かせください。
 
木越:本学は現在の文学部に加えて、18年4月に社会学部と教育学部を開設します。仏教の授業は全学必修になっており、私も担当します。鷲田先生も基調講演で話されたように、自分の中の違和感を大事にし、意見を持って発言できる学生を社会に送り出したい。仏教では「智慧から慈悲が生まれるのだ」とも考えますが、「物事が分かるようになると、人に寄りそいたいという知性が立ち上がるはずだ」と私は考えます。学ぶことで自分や社会を知り、人にどう寄りそうかを考えるようになる。そんな学生を育てる義務が、本学にはあると思っています。これからも仏教、哲学、思想を学ぶことを大切にしていきます。
 
鷲田:研究者は、皆が生き延びられるように、今何をしておくかを考える責任があると思っています。戦後、急激な右肩上がりの期間に育った人は、将来を心配しません。一生懸命やればもっと先は良くなるという考えです。しかしこれは、人間の歴史の中では異様なこと。定常社会に育った人は自分たちの子孫を案じ、備えをしてきました。孫やひ孫まで生き延びられるように、皆で考えるメンタリティーが大事です。
 
友澤:宗教や哲学は、私たちが生きる上で大事なものだと改めて痛感いたしました。ありがとうございました。

PROFILEプロフィール

  • 木越 康(きごし・やすし)

    大谷大学学長

    1963年米国・カリフォルニア州生まれ。大谷大学大学院文学研究科博士課程(真宗学専攻)満期退学。財団法人私学研修福祉会国内研修修了(研修先:東京大学文学部宗教学科)。大谷大学副学長などを経て2016年4月から現職。

  • 鷲田 清一(わしだ・きよかず)氏

    哲学者・京都市立芸術大学学長・大谷大学客員教授

    1949年京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学。大阪大学総長、大谷大学教授などを歴任。現象学・身体論の視点から医療や介護、教育の現場などに哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」にも取り組む。