「現実」が曖昧になった社会で

私達にとって「現実」とは何だろうか?
例えば、あなたがいま椅子に座っているとする。それが「椅子」であることは、とりあえず皆で共有できる事実だ。しかしあなたは、天井の電灯を交換するためにそれを踏み台にすることもできる。そのときそれは、「椅子」ではなく「踏み台」としてこそ意味を持つ。あるいはもっと視点を変えれば、小さなアリにとっては、元々それは「椅子」などではなく、餌を求めて歩き回れる単なる平面としか認識されていない(はずだ)。

つまり、それが「椅子」であるのは、私達がそれを腰掛けるための道具だと決め、「椅子」と名付けたからに過ぎない。そして私達は、その約束をいつでも変更できる。私達が「現実」だと思っているものは、言葉を用いた約束事でできている。この場面ではこう振る舞う、といった約束事は身体に染み込み、特に意識せずとも私達は日々それを実践している。〈現実は約束事だ〉というのは、とても大事な原則だ。

しかし最近、その原則が揺らいでいるように私には感じられる。SNSや生成AIを用いて、私達は言葉を発信し、それに対する反応を受け取ることができる。スマートフォンの中に自分だけの世界があると信じることも可能だ。別の世界に目をそらせるのだから、それまで「現実」が持っていた価値は下がる。

〈現実は約束事だ〉という原則は、「現実」を良いものに変えようとするときにこそ、ポジティブに機能する。しかし昨今、この原則は、〈現実は単なる約束事だから軽視しても良い〉という方向で解釈されているのではないか。極端に言えば、この「現実」もまたVRゴーグルの中の仮想現実に過ぎない、というような。しかし、私達は生身の体で生きている。「現実」が曖昧になった社会でも、具体的に傷つき、死んでいくのはあなたの体である。「現実」から逃れるのではなく、「現実」をより良いものに変えようとする知力が、ますます重要になってきている。 

PROFILEプロフィール

  • 北山 敏秀 講師

    【専門分野】
    日本近現代文学

    【研究領域・テーマ】
    第二次世界大戦後の日本文学/大江健三郎/同時代言説

資料請求 オープン
キャンパス