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2004年度夏季企画展「仏教の歴史とアジアの文化 I」新指定重要文化財 「湯浅景基寄進状」について

 2004年3月19日に開催されました文化庁の文化審議会文化財分科会において、本学所蔵の「湯浅景基寄進状」が国の重要文化財に指定されることが決定しました。
 「湯浅景基寄進状」は、「施無畏寺寄進状」とも呼ばれ、和歌山県有田郡湯浅町に住した土豪の湯浅(藤原)景基が、明恵のために施無畏寺を建立し、寄進することを記した文書です。
 明恵は、紀州に生まれ、華厳宗の学僧として高名であり、高弁と号しました。9才にして高雄神護寺に入り、文覚に師事。16才の時東大寺で受戒したのち高雄に帰り、栂尾に高山寺を開いています。持律堅固にして体験を重視する修行勉励は、「樹上座禅図」等からも窺い知ることができます。また、『華厳唯心義』『摧邪輪』『夢之記』など、40部を超える著作を残しています。
 建久6年(1195)23才の時、高雄に起こった騒動を厭い、紀伊湯浅庄白上峯に移り草庵を結んで仏道の修行に励むこと数年に及びました。
 寛喜3年(1231)、湯浅景基は明恵が修行した地に一寺を建立して施無畏寺と名付け、明恵に寄進しました。その寄進に関わる文書がこのたび重要文化財に指定された「湯浅景基寄進状」です。
施無畏寺は和歌山県湯浅町栖原に現存し、背後に山を控え前面は海に面した景勝の地であり、桜の名所としても高名です。現在の本堂は、江戸時代の再建です。
 文書の内容は、明恵壮年の当初閑居の遺跡を記念し、山海の四至を限って殺生禁断の地とし、施無畏寺を建立して明恵に寄進することを述べ、一族五十余名が殺生禁断を誓って連署しています。
 また、寛喜3年4月17日付けの明恵自署による外題証判があり、これによれば「為本堂供養下向之次第加判行也」とあって本堂供養の法会に明恵自らが参向したことが知られます。また、この年は明恵没年の前年にあたるところから、晩年の筆跡を知るうえでも貴重な史料です。
 本文始めには室町時代と推定される高山寺の朱印があり、その古い出所を知ることができます。
 今回の重要文化財指定は、すでに重文指定されている施無畏寺に所蔵される同様の文書との関連、明恵関連の史料として重要である点、また地方豪族の花押史料としても珍重すべきである点などが評価されたものです。
 なお、この史料は、江戸末期の東本願寺の僧で、本山の命により正確な仏典を伝えるために、黄檗版大蔵経を建仁寺の高麗版大蔵経と校合した事業で名高い丹山順芸師の旧蔵になるものです。丹山順芸師は、学問に秀でるとともに文雅の志も深く、頼山陽・東条義門らとも親交を重ねた人でもありました。
 今回の夏季企画展に際し、重要文化財の新指定を記念して特別展観を行います。