工藤 克洋 講師

「営業」「マーケティング」「情報戦」…。現代のビジネス用語に思えることばですが、
よく似たことを数百年前の戦国時代の聖(ひじり)や山伏(やまぶし)が実践していました。
修行する宗教者と言うイメージとは、ずいぶん違う顔がありそうです。
「情報を求める人間」は、今も昔も変わらない
「情報」というと、つい現代特有のものだと思いがちです。ところが戦国時代の資料を読み込むと、情報を求め、状況に応じて迅速に動こうとする人々がいたことが見えてきます。メディアや技術が違うだけで、情報を求める人間の本質は、今も昔も変わりません。 当時はニュースを伝えてくれるテレビ番組やインターネットサイトなどの情報メディアはありません。そこで情報メディアの役割を果たしていたのが、各地を行き来できる商人や宗教者でした。修行で諸国をめぐる山伏は、立ち寄った先で見聞きした戦の勝敗などを地元へ持ち帰ります。実際、鳥取城の城主が伊勢へ向かう山伏に「織田信長が攻めてきそうなら引き返して報せてくれ」と頼んだ記録も残っています。情報の運び手、それが山伏の「もう一つの顔」でした。
お寺の復興費を「トップ営業」で集める
聖や山伏が「営業集団」と呼べる活動の背景には、寺社の復興という事情がありました。火災や戦乱で焼けた寺院や神社を建て直す費用を、中世の前半までは朝廷や幕府が負担していました。ところが応仁の乱の頃である、15世紀後半になると、権力者にもその余裕がなくなります。そこで積極的に使われたのが「勧進(かんじん)」つまり募金でした。 勧進には、募金箱を持って回るだけでなく、自分から地方の有力者のもとへ出向いてお金を集めにいくスタイルも生まれます。まさに「トップ営業」です。その担い手が「勧進聖(かんじんひじり)」です。寺社に臨時で置かれた復興の責任者で、正規の職員ではありません。依頼を受けてプロジェクトを進める、いわば外部委託の営業責任者だったのです。
川中島の戦いの裏で動いていた「営業マン」たち
とりわけ興味深いのが、上杉謙信と武田信玄が激突した川中島の戦いの裏側です。1553年、信玄が信濃北部を平定した直後、清水寺の勧進を担う成就院※の関係者が現地へ駆けつけた形跡があります。のちに信玄が成就院の関係者へ送った手紙には「あのとき来てくれましたよね」という一文が残っているのです。戦のあった信濃へ、京都からすぐさま向かう、そのスピード感は並大抵ではありません。彼らは戦の最中も「今どこで誰が戦い、誰に頼めば資金を提供してもらえるか」を常に見極めていました。
※成就院:清水寺にある「塔頭(たっちゅう)」という、お寺の中の独立した施設
人の心をつかむ、したたかな交渉術
さらに巧みなのが、人のこころをつかむ術です。たとえば桶狭間の戦いで今川義元が討たれた直後、家を継いだ子(今川氏真)のもとへ、熊野で勧進をしていた人物が「大変でしたね」とすぐ手紙を送っています。勝ったときも負けたときも、身内を失ったときも、いち早く寄り添ってくれる相手は心に残る。その心理を突いて関係を築き、定期的な寄進という安定した収入源へとつなげたのです。 もう一つの鍵が「接点を見つける」こと。延暦寺の復興を進めたある僧は、天下人へと上りつめる秀吉との交渉で「延暦寺がまつるのは日吉(ひよし)大社。あなたのお名前にも『日吉』が重なりますね」と共通点を持ち出してこころをつかんだといいます。相手との接点が見つかったときこそ話が弾むのは、昔も今も変わりません。
AI時代だからこそ、歴史が教えてくれること
歴史を学ぶ意味も、ここにあります。社会は矛盾だらけ「効率も大事、対話も大事」と、板挟みになる場面が必ず訪れます。そんなとき、昔の人がどう動いたかを「人間観察のサンプル」として眺めてみる。主君に「勝て」と迫られる武士の重圧は、上司に営業ノルマを課される現代人と地続きです。その人はどう乗り切ったのか、あるいは耐えきれず謀反を起こしたのか…。そう考えると、歴史は退屈な暗記科目から、自分の生き方を考える教材へと変わっていくでしょう。
まとめ|戦国の“営業集団”に学ぶ、人を動かす3つの力
寺社を建て直す資金を集めた聖や山伏は、いわば戦国時代の“営業のプロ”。その働き方には、現代のビジネスにも通じる工夫があふれていました。
- 情報を集める:各地を行き来する立場を活かし、戦況をいち早くキャッチ
- すぐ動く:川中島の戦いの直後に現地入りするなど、とにかく即行動
- こころをつかむ:勝敗や不幸の直後に手紙を送り、長く続く信頼関係を築く
教科書には載らないこうした人間ドラマこそ、史料を読み解くおもしろさ。
その奥にある「なぜ人はそう動いたのか」を考える力を育てるのが、歴史学科の学びです。
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文学部 歴史学科
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