2026年6月 御命日勤行・講話 厳修

6月26日(金)10時40分より、6月の「親鸞聖人御命日勤行」を本学講堂において厳修しました。
勤行は、学長の調声のもと『正信偈』を唱和しました。その後、学生が感話を、森田 裕之教授が講話を行いました。

「感話」及び「講話」で話された概要を、以下のとおりご紹介します。

学生による感話

  • 大谷大学での学び

    私は、実家がお寺で幼い頃から仏教に親しんでおり、また、大谷大学を卒業した両親から話を聞く機会も多く、自然と親しみを感じており、毎日とても充実した気持ちで過ごしています。人間学の授業では、自分の知らないことや仏陀の教えが広まっていく過程を知ることができ、自分の価値観を見つめ直して学びを深めていくのが楽しく、いつもワクワクしながら講義を受けています。最近の講義で「幸せとは何か」について書き出す時間があり、小学校の授業で、聴覚障害者の方の「同じように接してほしい」という言葉がずっと私の心に残っているのを思い出しました。私は、無意識のうちに相手をかわいそうと決めつけていたのです。このことは、私の中の固定観念を揺さぶることになり自分が恥ずかしくなった瞬間でした。私は、先生を目指しており、生徒が目を背けたくなることから逃げずに現実と向き合って成長の糧にできるように寄り添いたいと思います。これからも様々な人との出会いや経験を通して、いろんな人の価値観や考え方に触れ、豊かな感性を身につけていけるよう大学生活で大いに学びたいと思っています。

  • 大谷大学での学び

    皆さんは、自分のことを好きだと言えるでしょうか。私は、長い間この問いに自信を持って答えることができず、大学生活の中で自分の個性を探し続けましたが、私は自分の個性ではなく他人との比較の中で自分の価値を証明しようとしていました。人間学の授業で学んだ六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)は、自分自身の姿が重なります。他人と比較して落ち込む私は地獄にいました。人より優れているところを見つけては安心し、また別の誰かと比べて苦しくなる私は修羅でした。もっといい人になりたいと求め続ける私は餓鬼でした。自分より優れた人は必ず存在するから、比較には終わりがありませんでした。さらに、学びを通してブッダ誕生の際の言葉、天上天下 唯我独尊に出会いました。この世界に生きる一人一人が尊い存在で、尊い命を生きているという宣言でした。これらの学びで、私は私であり唯一の存在であるということに気づくことができました。今ならはっきり「私は今の私が大好きです」と言えます。

本学教員による講話の概要

遊びをめぐる人間学的考察

教育学部教育学科 森田 裕之 教授

森田裕之教授による講話の様子
森田裕之教授による講話の様子

森田先生には、教育に深く関連する「遊び」というテーマについて、3つのパート(①ホイジンガに見る遊びの定義 ②ベイトソンに見る遊びの世界 ③ニーチェに見る遊びの意義)に分けてお話しいただきました。
 はじめに森田先生は、オランダの歴史家ホイジンガが、「音楽や踊りや芸術をはじめ、法律や学問や戦争に至るまで総じて文化は、遊びの中で生まれ、遊びとして発展してきた」と主張したことを紹介されました。その上で、ホイジンガによる遊びの定義を示され、遊ぶこと自体が目的で遊ぶという目的と行為の一致に遊びの本質が見出されると述べられました。
 次に、アメリカの文化人類学者ベイトソンの遊び理論に従い、幼児に見られるままごと遊びを例にとりながら、遊びの世界の不思議に関してお話しになりました。その中で、私たちの日常生活を成り立たせる常識的な論理を超えた新しい意味が創造される非日常が、とりもなおさず遊びの世界であるとの考えが提示されました。
 さらに、ドイツの哲学者ニーチェの議論によりつつ、遊びの意義をめぐって考察されました。そこから森田先生が導かれた考えは、私たちは否応なく物理的な因果関係の必然性に縛られて生きており自由ではないが、その必然性から私たちを救い出してくれるのが遊びにほかならず、遊びは絶対的に自由な偶然の行為であるとの考えでした。
 最後に森田先生は、ベイトソンとニーチェに基づいた上の考えを総合すると、遊びは因果法則に支配された自然の世界を突き抜けた自由な行為であるからこそ、それにより新たな意味、思いもよらぬアイデアやひらめきが生成すると結論づけられ、それはホイジンガの「文化は遊びの中で生まれ、遊びとして発展してきた」との主張につながる、と講話を締めくくられました。

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