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きょうのことば

きょうのことば - [2011年04月]

学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。

「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」
林 竹二(『学ぶということ』国土社 95頁)

 この言葉を述べた林 竹二(はやし たけじ)(1906~1985)は、教育哲学者であり教育者であった人物です。彼は、教育の学問的な探求だけでなく、全国の小学校で対話型の授業を行ない、授業を通じて子どもたちの中で「何かが変わる」事実をもって、教育の意味を考え、追求し続けた人でした。

 この言葉の前後の、林の文章は次のようなものです。

 学ぶということは、覚えこむこととは全くちがうことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終ることのない過程に一歩ふみこむことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないか。学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである
 また、次の文章は、林の授業を受けた小学生の一人が記したものです。
 答えて終って(左記強調部分について、原文の上部には傍点が付されています)しまうんでなく、考えれば考えるほど問題が深くなっていく。私は勉強していて、どこでおわるのか心配になってきたほどだ。私は一つのことを、もっと、もっととふかくなってゆく考えかたが、こんなにたのしいものかとびっくりした。
 学校での学びにおいて、知識の獲得は重要な要素です。しかし、その知識は、私たち一人一人が、物事や自分自身について、より深く思索していくためのものでしょう。林は、そうした深い思索こそ、そして、その思索を通じて、自分自身の固い殻が破られ、それまでとは違う何かが自分の中に生まれたという実感こそ、「学ぶということ」の本質だと言っています。

 林はまた、学園紛争時に、自らも長く在籍した大学の学長として、最後まで学生と正面から向き合い、対話をし続けました。更に、彼の大きな業績の一つである『田中正造の生涯』は、明治~大正期に問題となった足尾銅山の鉱毒事件に対し、衆議院議員の職を辞して、人々とともにその解決に向け努力し続けた田中正造の生涯とその意義を追及した著述です。林の生涯の歩みは、「学ぶということ」=「何かが変わること」という自らの教育観・人間観を、身をもって実践し続けたものでした。

 大学での学問は、自分の中で「何かが変わること」を、最も大切な学びの契機と考えるものです。林は、他を本当の意味で尊敬・信頼し、自己を偽(いつわ)らず、驕(おご)らず卑下せず、自分自身を粘り強く見つめ続けた人でした。そこにおいて真の学問が成就したのです。このことを、新年度に当たって私たちは改めて心にきざみたいと思います。

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