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きょうのことば

きょうのことば - [2009年12月]

われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられている。 われわれの愚行をたがいに宥しあおう。これが自然の第一の掟である。

「われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられている。 われわれの愚行をたがいに宥しあおう。これが自然の第一の掟である。」
ヴォルテール『哲学辞典』 (法政大学出版局 386頁)

 自分の考え方と異なる考え方をもつ人と出会ったとき、私たちはどのようにふるまうでしょうか。例えば好きな本やスポーツといった趣味の範囲において他の人と意見や好みが異なることはよくあることですし、その違いをきっかけにした会話はむしろ楽しいことでもあります。また、たとえ意見や好みが自分と合わなかったとしても、「それはその人の好みだから」と済ましてしまうこともあるでしょう。
 しかし、これが趣味の話ではなく、人生の一大事にかかわる事柄だとしたらどうなるでしょう。自分とは違う他の人の意見を受け容れたり、違いについての会話を楽しんだりすることができるでしょうか。

 フランスの思想家であるヴォルテール(1694-1778)は、その著作である『哲学辞典』に「寛容」という項目を設け、上記のことばを記しました。ヴォルテールは若い頃にイギリスに渡って生活をしたことがあります。イギリスでは様々な政治的・宗教的動乱があったのですが、曲折を経たうえで「寛容」を重視するに至りました。ヴォルテールがそこで学び取ったものは、違う意見を持つ他の人間もまた自分と同じ人間であり、それぞれが尊重されるべきである、という政治的・宗教的自由でした。

 そのヴォルテールが批判したのは、宗教についての考え方の違いを理由にして、異なる考えの者を断罪することもいとわないフランス宗教界のあり方でした。たしかに、自分が信じている事が素晴らしいものであると思えば思うほど、その事を他の人にも伝えたいと考えるのはものの道理といえましょう。しかし、他の人がそれを受け容れなかったり、既に違う事を信じていた場合に、多数派が少数派を抑圧するということが実際に行われてきました。そもそも寛容を説いていたはずの宗教そのものが最も不寛容になってしまっている、とヴォルテールは厳しく指摘します。

 人間自身は決して万能ではなく、誰でもかならず過ちをおかすものです。自分だけは絶対まちがわない、ということは、人間である以上ありえません。しかし同時に人間にはどうしても自分を中心に考えてしまう傾向もあります。過ちをおかす弱さとともに、自己中心的な傲慢さもあわせ持つのが人間なのです。この人間のありのままのすがたを受け容れることが寛容をはぐくむ出発点です。つまり、寛容を考える際に最初に見つめるべきものは「他者」ではなく、ほかならぬ「自分」のすがたなのです。

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