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きょうのことば

きょうのことば - [1997年12月]

宝の山に入りて、手を空しくして帰ることなかれ。

「宝の山に入りて、手を空しくして帰ることなかれ。」
源信『往生要集』『真宗聖教全書一』752頁

 ある俳優がテレビの中で次のような話をしていました。
 18才になる青年が、人生上の問題で行きづまり、自殺しようとして一人の僧侶を訪ねました。青年は、自分はもう生きていくことができないので自殺しようと思うが、自分の葬式をして欲しいとお願いしました。するとその僧侶は、君が自殺までしようとするからには余程のことがあるにちがいない、葬式は挙げるから心配しないでよい、ただ今日まで生きてきていろいろお世話になったのだからお礼だけは言ってきなさいと諭(さと)したのだそうです。青年はなるほどと思ったのか、両親ともう一人の某にはお礼を言ってきます、と言って立ち去ろうとした。すると僧侶は、間髪を入れず、君は学校へ行っていただろう、学校では誰のお世話にもなっていないのか。君は毎日ご飯を食べてきただろう、お米や魚のお世話になってきたのではないか、と次々質問しました。青年は自分がお礼すべきことどもがあまりにも多くて、お礼し切れないことに気づき自殺できなくなったのだそうです。
 この話は、自分自身に対する私たちの根本的な誤解をとてもわかりやすく教えてくれます。私たち一人一人は、もともと考え尽くせないほどの無限の用(はたら)きによって成り立っています。このことに思いが及ぶならば、実は私たち一人一人には既に無限の宝が与えられていることに気づくはずです。それにもかかわらず、私たちは、自分が今、ここに生きてあることをあまりにも当然のこととしているので、それだけでは満足できないような心を持って生きています。普段の生活の中で、自分と他人を比較して、なんとなく何かが足りないという感情に悩まされることは、誰にとっても身近なことでしょう。それ故、私たちはその足りない「何か」を求めて日々苦労しています。しかしよく考えてみましょう。何かが足りないという感情は、裏返せば足りないものが何であるのか分からないということと同じなのではないでしょうか。自分が何を求めているのか分からなければ、どのようなものを手に入れても決して満たされることがないのは当然でしょう。このようにして求めても求めても決して満たされることのない生き方を「空しい」と言うのでしょう。
 本当は宝の山である人生を空しく過ごさねばならないのは何故なのでしょうか。表題の一文はそこまで触れていませんが、私たちが自分の勝手な考えや都合にしばられて、本当は無限の用きによって成り立っているという自分自身の事実を忘れてしまっていることにあると言うのです。そしてここに立って初めて、誰にも代わることのできない、また代わる必要のない人生の発見があると教えているのです。

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