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きょうのことば

きょうのことば - [1997年06月]

吉凶禍福、競いておのおのこれを作す。一も怪しむものなきなり。

「吉凶禍福、競いておのおのこれを作す。一も怪しむものなきなり。」
『仏説無量寿経』『真宗聖典』61頁

 自分の人生を満足のいくものにしたい、これは誰もが願っていることでありましょう。
そのために努力をし、幸福を手に入れることに一所懸命になっているのが私たちであります。ところが現実は、自分の思い通りには動いてはくれません。それどころか、次から次に問題は起こってきます。その意味で、私たちの努力のほとんどは、問題が起こらないように前準備をしたり、起こった問題の処理に費やされていると言ってもよいでしょう。しかし、その努力は本当に幸福を約束するものでしょうか。
 自分が病気になった場合を考えてみてください。軽い病気ならば、治療することも可能でしょう。でも、重い病気、ましてや治療法がないと言われる病気にかかったら、どうでしょうか。どうしてこんな病気になったのかと、いくら過去を振り返ってみても、病気を取り除けるわけではありません。病気を憎むことは、病気にかかった自分を憎み、病気である自分の人生を憎むことになります。あえて病気を取り除こうとすれば、自分が生きていること自体を否定するよりほかありません。

身、愚かに、 神(たましい) 闇(くら)く、心塞(ふさが)り、意(こころ)閉じて、死生の趣、善悪の道、自ら見ること能(あた)わず。語る者あることなし。吉凶禍福、競(きそ)いておのおのこれを作す。一も怪しむものなきなり。
(世の人は、身は愚かで、こころも閉ざし、必ず死ぬ人生を生きながらどこに向かっているのかも知らず、何が本当の善であり悪であるのかを見ることもできない。またそのことを教えてくれる人もどこにもいない。吉とか凶とか、わざわいとか幸福に心を奪われ、お互いに競い合っている。しかも、一人として自分のしていることをおかしいと疑う者すらいないのである。)
 これは、吉凶禍福にとらわれている人間の姿を教えようとする釈尊の言葉です。自分に都合のよいことばかりを追い求め、お互いに競い合い、しかも自分のしていることを正しいと信じ込んで疑わない生き方が見据えられています。
 わざわい(凶・禍)を取り除き、幸福(吉・福)を招き寄せようとする発想には、問題のある人生は悪いものという見方が根にあります。それは本当に確かでしょうか。そういう物の見方を問い直してみる必要があるのではないでしょうか。でないと、善悪、優劣、有用無用というものさしですべてのことを計り、ついには、生きる価値の有無までを論ずることにすらなっていきます。結局はお互いに傷つけ合うことにしかなりません。
 吉凶禍福を競い合うことがどれほど痛ましいことか、自分の物の見方だけを正しいと信じ込むことがいかに愚かであるか、そのことが釈尊から問いかけられているのです。

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