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きょうのことば

きょうのことば - [2005年05月]

一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。

「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」
『歎 異 抄(たんにしょう)』(真宗聖典 p.628)

 この言葉は、親鸞(しんらん)(1173~1262)の言行録である『歎異抄』に伝えられるものです。親鸞は、「一切の生きとし生けるものは、すべてみな、いつの時にか父母であり、兄弟である」と言います。私たち一人ひとりの<いのち>が、いったいどのような事実の上に成り立っているのかということが、ここには確かめられています。

 私たちは、両親や家族、そして親しい友人など、多くの人と関わりながら生きています。私たちにとって、それらの関わりは、自分が安心して心を開くことができるものであったり、また自分にとってかけがえのない人の存在を実感させてくれるものです。他の人との間に、そのような思いを持つということ自体が、互いに関わり合いながら生きているという<いのち>の事実を示しています。つまり、私が今ここに生きているということは、他の<いのち>との関わりを抜きにしてはないのです。

 そこに、もう一つ気づかされるのは、<いのち>の関わり合いが、私たちにとって、単に両親や家族、親しい友人というところに止まるものではないということです。自分からすればそう親しくない人との間においても、また極端に言うならば、自分と敵対する人との間においてさえも、お互いの<いのち>は、実は深いところで関わり合い、支え合っているのです。

 親鸞は、この<いのち>の深い関わり合いを、「一切の有情は、みな」という言葉で表現しています。そこには<いのち>の関わり合いが、単に人と人との間にだけあるのではなく、人以外の存在も含めたあらゆる他の<いのち>との間にもあることまで確かめられています。<いのち>がもつこのような深い関わり合いが確かめられる時、初めて、いかなる<いのち>も尊く、またどの<いのち>も等しい重さをもつということが明らかになるのです。

 私たちは日頃、自分を何とか護ろうと、親しい人と親しくない人、自分の味方と敵、というふうに様々な関わりを区分けしようとします。しかし、それによって逆に、自分を孤立させ、孤独感や絶望感をもつことも少なくありません。<いのち>とは、私の身勝手な思いを超えて、他の<いのち>と深く関わり合い支え合っています。親鸞はこの事実にまなざしを注ぐことを通して、孤独から解放され、自らを信頼して生きる道を歩んだ人です。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という親鸞の<いのち>へのまなざしを、自分自身に確かめ直すことが、今、私たちに必要とされているのではないでしょうか。

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