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きょうのことば

きょうのことば - [2004年06月]

方便して涅槃を現わす

「方便して涅槃を現わす」
『法華経』「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」(『法華経(下)』岩波文庫p.30)

 今から2500年ほど前、ヒマラヤの峰々をのぞむ北インドの高原に、釈迦族の小国がありました。この国に生まれたゴータマ・シッダールタという名の王子は、やがて35歳のときに仏陀(真理に目覚めた者)となり、多くの人々を教え導いた後、80歳でクシナガラの地で入滅することになります。歴史上の人物であるこの仏陀を、人々は釈尊と称しました。釈尊とは、釈迦族出身の尊い人という意味です。

  ところが『法華経』では、釈尊が80歳のときに老比丘(びく)の姿をもって入滅したのは、人々を救い導くために示された仮の姿である、と説かれます。真の釈尊は尽きることのない寿命をもち、永遠に衆生にはたらき続ける仏〔久遠仏(くおんぶつ)〕であることが説き明かされます。

  「涅槃」とは、仏の入滅を意味します。また「方便」ということばは、人々を教え導くために仏がもちいる巧みな手だてのことです。つまり、「方便して涅槃を現わす」ということばは、釈尊の80歳における入滅が、実は人々を導くために仮にとられた巧みな手段であった、ということを意味しています。

  それでは、釈尊が自らの入滅を示現することが、なぜ人々を導くための巧みな手段であると言えるのでしょうか。それは「依(よ)りどころの喪失」ということばで説明できます。私たちにとって心の依りどころは、家族の愛情であり、友情であり、健康であり、また社会的地位 や他者の評価であり、あるいは、お金であったりします。そのような日常的な依りどころを亡失するという、個人にとってきわめて深刻な体験が、しばしば真の依りどころを求める機縁となる場合があります。

  釈尊は当時の人々にとって最上の依りどころでした。しかし、そのような釈尊の存在が、ある種の人々にとっては、安心感と同時に、一方でまた怠惰な思いとわがままな生活を生み出すことにもなりました。そこで釈尊は、自らの入滅を示現することによって、かれらに喪失の悲しみを懐(いだ)かせ、釈尊への遇(あ)い難い思いと、渇仰(かつごう)の心を生ぜしめようとした、というのです。それがかれらにとって、真の依りどころを求める求道の出発点となりました。

  私たちにとっても、真の求道にわが身をおくことは、きわめて稀(まれ)なことでしょう。自己中心の日常的な思いが破られ、真の依りどころを求める意欲が生じるのは、自分の思いをこえた機縁を待つしかないのかも知れません。ともあれ、自己が仏によって願われた存在であることを信じつつ、常に教えにふれ続けていく聞法の歩みのみが、そのためのもっとも確かな営みなのではないでしょうか。

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