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きょうのことば

きょうのことば - [2004年05月]

豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。

「豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。」
親鸞『教行信証』〈所引『安楽集』〉(『真宗聖典』p.173)

 親鸞が『教行信証』に引用するこの言葉は、中国の道綽(どうしゃく)(562~645)が著した『安楽集』の言葉で、「どんなに権勢を誇り、財力を誇ったとしても、生・老・病・死の苦をのがれることのできる者は一人もいない」という意味です。

 仏教では私たちの人生のあり方を「苦」と表し、それは冒頭の言葉に示されるように、どれほど権勢や財力を誇ろうとも、その立場や生き方に関わらず、私たちの誰もが決して避けることのできないものだと教えます。この苦はさらに生・老・病・死の四つの苦として確かめられています。

 私たちの一人ひとりが、ある時たまたま生を享(う)け、そして今ここに生きています。
そんな私たちにとって、いつかは老いていき、病み、やがて死を迎えるということは、理屈の上では当たり前のことだと言えます。しかし、私たちは、それを自分自身の問題として、本当に受けとめているでしょうか。たとえば少し周りを見渡すならば、「いつまでも健康に」とか、「いつまでも美しく」という、うたい文句が私たちを取り巻いています。そこに実は、老い、病み、死ぬことを、いつでも自分にとって不都合なものと考え、それを避けようとしてもがいている私たちの姿が映し出されているのです。

 自分の思い通りにならない不都合なことを、自分の力で何とかできると思いこんで生きていくところに、実は私たちの人生の大きな問題があります。そのために、私たちは自らの人生に確かな手ごたえを感じられないまま日々を送ることにもなります。仏教が私たちの人生を「苦」と言い切るのは、実は私たちの生き方が抱えている問題を教えるものに他なりません。

 親鸞(1173~1262)という人は、その青春時代にひたすら仏教に向き合い続ける中で、生・老・病・死という人間の人生の事実を教えられました。そしてそこに、自分の思い通りにならない不都合なことを、いつでも自分の思い通りにして生きていこうとする自分の姿を問い続けた人です。私たちにもまた、仏教の学びを通して、自らの人生のあり方を見つめていくことが願われているのです。

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