きょうのことば - [2002年10月]
「人、他の宝を数うるも自ら半銭の分なきが如し」
『華 厳 経(けごんぎょう)』
上に掲げた言葉は、『華厳経』(唐 実叉難陀(じっしゃなんだ)訳)の文です。
人、他の宝を数うるも 自ら半銭の分なきが如し(人は、他人の所有している宝物をいかに数えたとしても、その人自身には半銭の取り分もないようなものです。その人が、いかに多くの教えを聞いていたとしても、それが身についていなければ、他人の宝を数えていることと同じことになってしまいます。)
法に於て修行せざれば 多聞(たもん)なるもまたかくの如し
自分に「半銭」というわずかな取り分もないのに、他人の「宝」を自分のものであるかのように数え続けているという譬喩は、何を示しているのでしょうか。仏教を学ぶ者にとって、教えを聞くこととそれが身につくこととは、どちらも大切な徳目であるとされます。ところが、『華厳経』の場合は、他人の宝物を数えることを「多聞」に、自ら半銭の分のないことを教えが身につかないことに当てて、その関係を述べています。多くの教えを聞いても、それが身につかなければ意味がないというのです。
多くの教えを聞こうとするように、人は、なるべく便利で快適な生活を送りたいと思って、たくさんの情報を取り入れ、自分の望みをかなえさせようとします。満たされなければ悶々と苦しむし、満たされればそれだけで満足せず、新たな欲望が芽生えてきます。また、目的のために情報を使うというよりも、情報を集めることが目的になってしまうことさえあります。
仏の教えに出会うためには、教えを聞くことは大切なことです。しかし、本当に聞くことになっているのでしょうか。一生懸命、聞こうとしていても、それを身につけていくことにならなければ、結果的に、自分のためにはならないことになります。教えを聞くことが、自分自身の生きる力にならないのです。
多くの宝が用意されていても、それが自分のものにならなければ、大変、もったいないことです。他人の宝を自分のものであるかのように思い込むことは、単に知識を増やそうとしていることでしかありません。『華厳経』は、物知りになることが本来の目的ではなく、自分の本当の姿をみつめて仏法の宝を身につけさせようと教えているのです。