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きょうのことば

きょうのことば - [2002年07月]

忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。

「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」
『大乗起信論』

 私たち人間は、さまざまな迷いをもって生きています。『大乗起信論』は、そのような人間を大海に波立っている「波」のようなものだと言っています。そこに説かれる「水波の譬喩(ひゆ)」を取りあげてみたいと思います。
 静かな大海に風が吹くと、海水に波が立ちます。風が弱ければ小波が立ち、強ければ大波も立ちます。波は動いていますが、風がなくなればそれは消えて、海水は静かさを取りもどします。ここでは、「海水」を衆生の清浄な心、「風」を無明、「波」を迷いの心にたとえています。清浄な心は、迷いの心と同じではありません。その一方、海が波になっているわけですから、波は海の状態でもあります。人間は現実的には迷いの心におおわれて波立っています。しかし、波立ちのない清浄な心が本来の人間であるというのです。
 上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。
 たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。
 私たちは、迷いの心の原因が無明であると言われると、それにも原因があるだろうと思ってしまいます。しかし、無明は、その原因を時間的にさかのぼってたずねても、その始原はないのです。始まりのないのが無明なのです。むしろ、迷いの心が現に起こっていることを無明というのです。
 風が止んで波がなくなった状態のように、人間の本来は清浄な心であり、それを如来と言います。『大乗起信論』が明らかにしようとしたことは、ただ現実的に凡夫の状態であることが人間なのではなく、本質は如来なのだということではないでしょうか。
 本来、波立ちのない清浄な心であるにもかかわらず、現実的には迷いの心となっています。清浄な心と迷いの心とは、水と波ですから同じものではありません。しかし、水と波は、それぞれ「海の水」「海の波」なのですから、まったく別のものではありません。本来一つであったものが、現実には二つになってしまうのです。それが人間の現前の事実であるというのです。だから、さとりと迷いとに分裂してしまう「別れ目」を無明と呼んだのであり、「忽然として念の起こる」という表現をもってこれを言いあてようとしたのです。

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